「澤瀉屋(おもだかや)」には「不幸」という二文字がついて回っているのか。

先日、83歳で亡くなった市川猿翁さんが3代目市川猿之助を襲名した直後に、後ろ盾だった祖父の初代猿翁(2代目猿之助)、父の3代目段四郎が相次いで亡くなって、劇界の孤児となった話はよく知られているが、曽祖父の初代猿之助も波乱の人生だった。

明治期に9代目市川團十郎の門弟になったが、20歳の時に師匠の許しも得ずに「勧進帳」を演じて、破門となった。地方の芝居小屋を転々とする日々を過ごしたが、その後、許されて門下に戻った。初代の息子の2代目猿之助も40代で大部屋俳優とともに松竹から脱退したものの、後に彼らと対立し、たもとを分かった俳優たちは「前進座」を結成した。猿之助は松竹に復帰したが、以前の幹部俳優の地位から降格しての再出発を余儀なくされた。

そんな「反骨」の精神を曽祖父、祖父から継承した猿翁さんは、上演されなくなっていた古典を宙乗りや早変わりという当時としては斬新な演出で復活させ、「スーパー歌舞伎」で多くの若いファンを歌舞伎に取り込んだ。40代、50代の時が猿翁さんの頂点だった。その後は「不幸」が続いた。

63歳の時に病のため、毎月のように出ていた舞台から遠ざかった。69歳の時には、初恋の人だった、最愛の妻・藤間紫さんが亡くなった。2012年には絶縁状態だった息子香川照之と和解し、香川は市川中車を名乗って歌舞伎界入り。孫は自身が初舞台で名乗った團子となり、おいが4代目猿之助を襲名した。

その後は順風満帆のはずだったが、昨年、香川は性加害報道でドラマから姿を消し、今年に入って4代目猿之助は一家心中を図り、10月には裁判が待っている。そんな中で猿翁さんは、スーパー歌舞伎第一弾で演じた、天かけるヤマトタケルのように天に帰っていった。生前の猿翁さんは、弟・段四郎さんの死を知らされていなかったという。心穏やかに最後を迎えたことが、せめての救いだった。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)

【イラスト】市川猿翁家系図
【イラスト】市川猿翁家系図