一昨年の夏、ジャニー喜多川さんの追悼イベントの2週間くらい前だったと思う。ジャニーズ事務所の旧知の幹部から電話が入った。

「ジャニーさんのロサンゼルス視察に同行しましたよね」

追悼映像に使う写真の整理をしていて、その背景説明のために当時の様子が知りたいということだった。30年以上前の話である。そう簡単に記憶がよみがえるはずがない。

事務所の主立った人たちが集まって会議をしているということで、ざわざわと話す様子が電話の向こうから聞こえた。

と、その中から「それ、違うよね」と、あの声が聞こえた。とたんに背筋が伸び、頭が回転して当時のことが明確に思い出された。

「あれは僕ではなく、後輩のH記者がご一緒したんですよ」

決して大きくはないが、語尾にアクセントがあって1度聞いたら忘れられない張りのある声には、たとえ電話の「背景音」であっても、人の背筋を伸ばし、頭も体も働かせざるを得なくさせる不思議な「力」があった。

声の主、ジャニーズ事務所名誉会長の藤島メリー泰子さんが14日に亡くなった。93歳だった。弟ジャニーさんとともにアイドル帝国を牽引(けんいん)してきた功績はいまさら言うまでもない。ひらめきの人、ジャニーさんが自在に活躍できたのも、支えるこの人の存在があったからこそ、と改めて思う。

表に出ることがほとんどない人だったので、お会いしたのは数回だが、いつもおだやかに話も面白いジャニーさんに比べると、良くも悪しくも緊張を強いられるメリーさんは正直苦手だった。

一方で、持ち前の「話の早さ」にはありがたい一面もあった。落としどころを探るような駆け引きはなく、この人の最初のひと言が落としどころだった。

四半世紀を超える日刊スポーツの特集ページ「サタデー・ジャニーズ」には、芸能デスクとして最初から関わったので、立ち上げ時のことをよく覚えている。

「では、週1回1ページということで」

当時のこちらの部長も即断即決の人だったこともあったが、メリーさん主導の最終打ち合わせは、コンセプトの説明から決定まで数分だった。

決めたら譲らない。その代わり約束は必ず果たす。若き日のメリーさんのきっぷの良さには、あのプロレスラーの力道山もぞっこんだったと聞いた。メリーさんの記憶の断片は、どれも「切れ味」がいい。