男子ゴルフでツアー最多94勝を誇り「ジャンボ」の愛称を持つプロゴルファーの尾崎将司さんが23日午後3時21分、S状結腸がん(ステージ4)のため78歳で死去した。24日、長男の智春さんの名前で発表された。約1年前の診断後、尾崎さん本人の強い意志により自宅療養を続けていたという。
50年以上の付き合いの親友、タレントなべおさみ(86)が悼んだ。
なべ 初めて会ったのは、ジャンボがプロになって2年目の1971年(昭46)。日本プロで初優勝した年でした。その年のサントリーオープンのプロアマに出場した時に、知り合いのプロから「ジャンボの習志野の家に行こう」と誘われて初めて対面しました。それが最初。それで付き合うようになって、ジャンボが年末パーティーをある司会者に頼んだ。そのギャラがすごく高くて相談されたんだけど「ちゃんと払っとけ」と。その代わりに「あとは俺が全部、司会をやってやる。ギャラはいらないから」と約束した。これは僕が、1991年(平3)に明大替え玉受験の事件を起こすまで続いた。それ以降は迷惑をかけるから、試合会場に行くのもやめました。
尾崎さんとは兄弟分の契りを交わしていた。
なべ 2人で車に乗っている時に「友達になってくれないか」って言うんで、利害関係なく分かち合える友達になろうって誓い合った。そうして「私の尊敬する兄貴分に会ってくれ」って、福岡まで飛行機で連れて行かれた。そこで池永正明さんに引き合わせられた。池永さんは黒い霧事件に巻き込まれて永久追放になっていたんだけど、ジャンボは「僕は、この人を尊敬している。西鉄に入った時に自分をたいしたピッチャーだと思っていたけど、池永さんの投球を見て、俺はダメだと。それで辞めた」。それで3人で義兄弟になったんです。尾崎3兄弟だと、建夫、直道の長男だけど、ここではジャンボは三男。僕が長男で、池永さんが次男。彼は数を好まない男だった。人間関係も、人慣れせずに誰にも尻尾を振ったりはしない。口癖は「来る者拒まず、去る者追わず」。独自の歩みをしていた。
尾崎さんは82年の関東オープンで1年9カ月ぶりの復活優勝を遂げた。
なべ 優勝から遠ざかっている時に、僕は習志野のジャンボの家に泊まっていた。東京での仕事が終わると、ジャンボ邸に帰って練習に付き合いました。車で千葉県内をあてどもなく走りながら、2人で「なんとかカムバックしよう」って誓い合っていた。地方遠征ではホテルの同じ部屋で寝たこともある。ジャンボは「柔らかいマットは腰に良くない」って床に寝るんです。それで僕がベッド。真夜中に突然起きて、ベッドのマットを立てて、床に敷いたバスタオルの上のボールを打ってショートアプローチの練習を繰り返したこともありました。互いの家を行き来して、うちの長男のなべやかんが「リビングでデカい男がゴロゴロしてる」って驚いてました。
尾崎さんは、この1年間、病との戦いを続けていた。
なべ 周りの人間から、それとなく身体が悪いのは聞いていた。知っていましたけど、どうにもならなかった。1年や2年、会わなくても入り込める関係だったけど、具合が悪いのを知った私が行くと弱さを見せるのを嫌がるだろうから何もできなかった。
尾崎さんは07年(平17)に民事再生手続きを申請。事業の破綻から自己破産した。
なべ 習志野の豪邸から立ち去る時、ジャンボたちが出て行って、俺だけが残って掃除や整理をした。その時に「ジャンボ邸の最後を見届けた。絶対に立ち上がれ」と。そういう思いも、ともにしてきた。明大の事件を起こしてからも、変わらずに付き合ってくれた。94年に芸能界の仕事を再開して、銀座でディナーショーを開いた時も、尾崎3兄弟そろって来てくれた。俺がどんな時でも、ジャンボは礼を尽くしてくれた。徳島の宍喰町(現海陽町)の実家へも何度か行きました。91年の父親の葬式では司会を務めた。14年の母親の葬儀にも出ました。30代半ばから50年以上の付き合いですから、細かい思い出までいっぱいありすぎる。残念です。冥福を祈ってます。



