89年ぶりの快挙にあと1歩届かなかった。総合馬術個人で戸本一真(38=JRA)が4位入賞。1932年ロサンゼルス五輪の障害飛越で、「バロン西」こと西竹一さん(42歳で死去)が金メダルを獲得して以来の日本馬術界のメダル獲得はならなかった。

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硫黄島に散った西さんの伝説を追いかけて、日本の戸本一真(38)が悲願に臨む。2日目のクロスカントリーで5位に着け、最終日のこの日は障害飛越。1本目、障害物を1つ落下させ減点4で7位に順位を下げる。2本目、障害物を1本も落とさずほぼ完璧な飛越も銅メダルまで2・3ポイント届かなかった。結果的に1本目の障害物を落とさなければ、銀メダルだった。

試合後、4大会連続で出場した総合馬術のキャプテン大岩義明(45)を見つけ、抱き合いながら2人で涙した。大岩は前日のクロカンでまさかの落馬。この日は選手交代して不出場も、気丈に振る舞いチームのムードづくりに貢献していた。

戸本は16年、障害馬術から総合馬術に転向。英国で最も低いクラスの大会から出場した。それでもクロスカントリーが怖かった。「このコースを本当に走れるのか…」と不安に駆られている横で、小さい子どもたちがポニーに乗って次々に完走していた。「正直今でも怖さはある」。それでも2日目のクロカン、ミスのない騎乗で初日の馬場馬術7位から5位に浮上させた。

戸本ら馬術選手は他のスポーツとの競技生活とは一線を画す。大型自動車免許を取得し、欧州での大会を遠征するため馬を運ぶ馬運車を自ら運転。海はフェリーで渡り「1番遠い時はポルトガルに1500キロ走った」。

JRAに所属し、2010年に千葉県白井市の競馬学校で1年間、馬術の教官も経験した。「競馬学校ではジョッキーを目指す生徒が馬術をやる期間がある。その期間に教えた。競馬に直結する部分は元ジョッキーの方が担当する」と話す。

日本馬術界の悲願だった89年ぶりのメダルには届かなかったが、さまざまな経験を積み、自国開催で堂々の4位。「バロン西伝説」に1歩近づいた。

イタリアで購入した愛馬ウラヌスとともに1932年のロサンゼルス五輪で、現在に至るまで1つしかない日本馬術界のメダルを獲得した西さん。この金メダルをきっかけに海外で「バロン(男爵)西」と呼ばれるようになった。

ロサンゼルス市からは市民栄誉賞が贈られた。36年ベルリン五輪にも出場。しかし太平洋戦争が激化し陸軍軍人だった西さんは戦車連隊長として44年、硫黄島へ。翌年3月、無念の戦死。その胸にはウラヌスとの写真があったとも言われている。

戸本は西さんについて「偉大な先人。彼にとても追いついていないことは理解している。でも何十年ぶりのメダルよりも、その日、その日の試合に集中していた」と語った。

大岩は「当時、欧州に行くのにも何日もかかる。シベリア鉄道なのか船なのか、ものすごい苦労。ウラヌス号を見つけた当時の情報網も信じられない。それでいて金メダル。その後、硫黄島で戦死し伝説となり英雄となった」と話していた。

エース大岩が引っ張ってきたチームに戸本という新たな力が加わり米国で行われた18年世界選手権、総合団体で4位入賞を果たした。「メダルを獲得することが夢ではなく目標に変わった」と戸本は言った。

悔しい4位だが「ここで得た経験は絶対にメダルへとつながる」。3年後のパリ五輪では必ず、西さん以来のメダルをつかみ取る。【三須一紀】

◆戸本一真(ともと・かずま)1983年(昭58)6月5日、岐阜県本巣市生まれ。明大卒。8歳で乗馬を始めた。16年に総合馬術で東京五輪を目指すため拠点を英国にし、現在に至る。18年世界選手権で個人23位、団体4位。今回出場した馬はヴィンシーJRA(12=セン馬)。

◆馬術 五輪の馬術は、馬場馬術、障害飛越、総合(馬場+クロスカントリー+障害)の3種目でそれぞれ個人、団体がある。五輪競技で唯一、男女の区別がない。馬場馬術は、演技の正確さや美しさを競う。障害飛越は、障害物を決められた順番通りに飛越、走行し規定時間内のゴールが求められる。総合は、この2つにクロスカントリーを加えた3種目を同一人馬のコンビネーションで3日間かけて行う。3種目の減点合計が少ない人馬が上位となる。