日本勢として49年ぶりに男子走り高跳び決勝に進んだ戸辺直人(29=JAL)は、2メートル24の13位だった。最下位に終わったとはいえ、国立競技場で亡き師の思いを胸に戦った。

52歳で他界した図子浩二さん。母校の筑波大陸上部の元監督で、大学院の研究室の教授でもあった。2メートル35の日本記録保持者。メダルを目指した挑戦が、幕を閉じた。

 

日本勢として49年ぶりにたどり着いた決勝の舞台で、戸辺は国立の夜空を舞った。2メートル19を2回目で成功し、2メートル24は1回目でクリアした。しかし2メートル27の試技に3度失敗して脱落。決勝を終えた戸辺は両手をたたき、深々と一礼した。高い壁、それは支えてくれた人がいたから、目指すことができた。

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その跳躍は理詰めで成り立つ。19年春に卒業した筑波大大学院では修士課程2年、博士課程3年間を過ごし、動作や技術を分析した。「走り高跳びのコーチング学的研究」という博士論文はA4の158枚。今も筑波大に通い、知識の吸収、研究に余念がない。

心に刻む言葉がある。「エビデンスベースでやれよ」。筑波大時代に指導を受け、コーチングや跳躍のトレーニング方法などを研究していた図子さんに何度もそう言われた。

それは、あまり突然だった。16年6月2日。その日は研究室の勉強会。知人のスマートフォンにメールが届いた。図子さんの急逝の知らせ。もともと入退院を繰り返していたとはいえ、状況がのみ込めなかった。

通夜では先生の言葉がよみがえった。

「世界でメダルを取れるぞ」

リオ五輪は代表落選も、再出発の契機は亡き師による論文。「日本選手が跳躍で世界に通用していない流れを変えるには、理論的なトレーニングを作り、実行することが大事」。そんな熱い思いがつづられていた。図子さんの使命は自分が絶対に果たす-。そう心に決めて挑んだ五輪だった。

日本勢が約半世紀も届かなかった五輪の決勝。最下位でも、持てる力は出し切った。大会後、仏壇の前に報告に行くつもりだ。【上田悠太】