16年リオデジャネイロ五輪後にマラソンに転向した鈴木亜由子(29=日本郵政グループ)は、3度目のマラソンが東京五輪となる。中学時代から天才少女として注目されたが、愛知の進学校である時習館高では故障にも苦しんだ。世界の舞台で戦い始めたのは、旧帝大として知られる名古屋大時代。同大学ならではの強化で、現在の礎を築いた。

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「賢いし、いろいろなことができて性格もいい。その中でも亜由子の一番の才能は走ること。そこを磨いて、五輪に出るんだよ」-

二十歳を迎える2011年、名古屋大2年の頃だった。鈴木は当時陸上部の監督を務めていた金尾洋治さん(64)に告げられた。

「私、そんなに強いですか?」

目の前の金尾さんは笑っていた。

「ちょっと待て。なかなか、この練習はできんぞ」

鈴木にとっては、ごくごく当たり前の練習だった。

中学生の頃から天才少女として注目された。全国都道府県対抗女子駅伝で区間賞を獲得し、時習館高に進学。だが右足甲を疲労骨折し、2度の手術を経験した。高校2年の夏、別の選手を見ようと、大会に訪れていたのが金尾さんだった。接点が生まれ、鈴木は名古屋大の練習見学に向かった。その雰囲気に魅力を感じ、経済学部を受験。無事に合格し、陸上部に入った。

全体練習は基本的に火木土の週3回。そこの走りで常に100%を求められた。全国大学駅伝に出場している男子はグループS~Dに分かれ、それぞれタイムが設定されている。

鈴木の名前は女子ではなく、そこにあった。

週3日の走りで評価され、その都度振り分けが決まる。金尾さんは「(男子)8人が全日本大学駅伝を走るけれど、亜由子が一番安定していたから『使いたいなぁ…』と思ったこともありますよ」と懐かしんだ。

朝練習は設定されておらず「しなくていいんですか?」と尋ねたこともあった。リポートを含めた学業はもちろん、睡眠や食事を大切にする。けがのリスクをできる限り排除し、男子に交じって力を高めるスタイルが当時の鈴木に合った。

大学時代から国際大会を経験し、13年ユニバーシアードでは1万メートルで金メダル。日本郵政グループの陸上部1期生としてトラックで16年リオ五輪の切符をつかみ、マラソンに転向した。

故障の影響もあり、3度目のマラソン。それでも事前合宿では充実した調整をこなしたといい「自分のできることはやってきたかなと思います」と言い切る。

「一番の才能は走ること」-

42・195キロを、自分らしく走りきる。【松本航】