世界で最も若く、強い男が誕生した。男子個人総合決勝で橋本大輝(19=順大)が6種目合計88・465点で初優勝を飾った。92年バルセロナ五輪覇者のビタリー・シェルボを超える五輪史上最年少での優勝で、日本人としては5人目。ロンドン、リオデジャネイロ五輪と2連覇していた内村航平も成し遂げられなかった10代での世界王者となった。千葉の小さな体育館で育った男が、王位を継承。日本体操界の五輪でのメダル数で100個目となる節目に名前を刻み、8月3日の種目別鉄棒に挑む。

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「ハッ、ハッ、ハッ!」。落ち葉を踏み、土を蹴った。千葉県の山あい、香取市の山道を橋本は走っていた。くぼみを飛び越え、畑の中を息を切らした。6歳からずっとそうだった。この1歩1歩はどこにつながっているのか、15歳、中学3年の橋本には分からなかった。ただ、ひた向きに木々の下を走っていた。

わずか4年後、東京の有明に橋本はいた。木々で作られた五輪会場で、「やったー!」と声はこだました。突き上げた拳は、4年前の自分には想像もつかなかった。「言葉では言い表せないぐらい。本当に人生で一番うれしい瞬間は言い表せない」。21年7月28日午後10時8分、世界で一番体操がうまい男になった。

「廃校から世界へ」。それが誇りだった。6歳で兄を追って通い出した佐原ジュニア。通っていたのはわずか10人ほど、廃校になった小学校の体育館が拠点だった。練習前、恩師の山岸信行監督(65)が「行くぞ」と声をかける。向かうのは学校を取り囲む山。季節を問わず、起伏のある山道を走る。心肺機能、脚力強化。アスファルトでは培えない、山の力があった。一瞬にかける体操。走ることはいまでも当たり前の練習ではない。ただ、決して手を抜かなかった。「無限君」と呼ばれる体力の原点はそこにあった。

器具はそろっていなかった。跳躍で落下する衝撃を和らげるクッションが入ったピットはない。当たり前に同年代が練習する鉄棒の離れ技1回1回に、集中力は問われた。覚悟を決めた毎回に握った日々は、この日の最終種目につながった。落下すればメダルはない。その状況でも揺るがない。「ミスなくいけば、金メダルがある。記憶に残る演技をしよう。楽しんでこよう」。廃校があったからこそ…。充実した環境ではないから、自然があったから、手にしたものがあった。

中3の全国大会では骨折の影響で107位の最下位だった無名の男は、市立船橋高で一気に頭角を現した。高校界随一の充実した施設で、乾いた砂が水を吸収するように技を会得し続けた。廃校で繰り返した基礎があったから、次々に技を組み込めた。「あそこで培ってきたものがいまの自分の完成度につながってきている」。コロナ禍での1年でも一気に難度を上げた。そこでも、豊富な練習量に肉体は負荷に耐えた。

はね上げる脚力を見せつける床運動、雄大に旋回するあん馬、伸びしろ十分のつり輪、誰よりも遠くに跳ぶ跳馬、足先の美しさが際立つ平行棒。そして、優勝を決めた鉄棒まで。「この5年間の努力の結晶」は新王者への道となった。

表彰式、涙はなかった。 「チャンピオンは涙を流さずに、前だけ見ていきたいと思った。笑って、この試合を楽しめたのが良かった」。公言するのは3連覇。体操ニッポン100個目のメダルに黄金を刻み、新たな時代の主役を担う。

最後に聞いた。4年前、山道を走っていた自分に声をかけるなら? 「マイペースで本当に体操を楽しんで、体操を続けてなさい」。その一歩一歩が、新たな伝説につながるから。【阿部健吾】

◆橋本大輝(はしもと・だいき) 順大。2001年(平13)8月7日、千葉県成田市生まれ。3人兄弟の末っ子で、体操していた2人の兄の影響で6歳で始める。千葉・市船橋高では18年高校総体個人総合優勝。19年世界選手権では白井健三に続く史上2人目の高校生代表で団体銅メダルに貢献。得意種目はあん馬、跳馬、鉄棒。164センチ、54キロ。