男子組手75キロ超級で、荒賀龍太郎(30=荒賀道場)が銅メダルを獲得した。タレグ・ハメディ(22=サウジアラビア)との準決勝に臨み、手足の長い相手の左蹴りを警戒しつつ、懐に入った。しかしハメディの突きを2度浴びてポイントを許し、0-2で敗れた。3位決定戦はないため、銅メダルが確定。

目に涙をためた荒賀は「やはり金メダルを目指して今までやってきたので、すべてを出し切ろうと思って挑みました。日本発祥の空手で、初めての空手のオリンピックの舞台で日本代表として選ばれたからには、しっかりとプライドを持ってメダルなしでは帰れないと思って、畳の上に立ちました」と振り返った。

空手道場を経営する両親のもとに生まれ、3歳のときに空手を始めた。「スピードドラゴン」の異名を取り、素早い突きが最大の特徴。幼少期からの反復練習によって素早い突きを習得。家の外にある電柱を相手に遅くまでスパーリングを重ねたこともあったという。

空手の天才少年として注目を集めた逸材。小、中学校時代から全国大会で優勝し、高校時代には史上初のインターハイ3連覇を果たすなど、選抜大会、国体を含めて8つのタイトルを獲得。勢いに乗って出場した全日本選手権では2人の元日本チャンピオンを破り、準決勝では前年覇者の松久功と互角に近い熱戦を演じた。京産大に進んだ翌年には、史上最年少となる19歳での全日本選手権優勝を達成。その後も国内トップを走り続け、日本一に計5回輝いた。

父であり、師匠でもある元日本代表の正孝さんかららたたき込まれたのが「逃げるな」というポリシーだ。自身2度目の世界選手権挑戦となった14年。決勝に進むも、実力的には勝てるはずの相手に対して精神面で劣勢に立ってしまい、優勝を逃した。控え室に戻ると、攻める姿勢を失ったことを見透かしていた父から一喝され、意識が変わった。スポーツ心理学を勉強するなど自分自身を徹底して見つめ直し、16年世界選手権での初優勝につなげた。

けがとも戦った。五輪出場内定をつかんだ20年1月プレミアリーグ・パリ大会では、初戦に右手を骨折。それでも五輪切符当確ラインが掛かる準決勝まで気合いで勝ち上がった。今年5月の同リーグ・リスボン大会では、準決勝で足を負傷して決勝を棄権。その後の調整に狂いが生じたが、なんとか本番までに立て直した。「自分のなかで東京五輪は集大成。いままでで1番強い荒賀龍太郎を見せられる舞台にしたい」と誓っていた。

喜友名諒が金メダル、清水希容が銀メダルを手にした形とは対照的に、組手では男女とも予選敗退が続いていた中で、空手発祥国の最後の砦として、意地を見せつけた。