東京五輪ラグビー(7人制)男子日本の主将を務める松井千士(ちひと、26=キヤノン)は、50メートル5秒8の快足を武器とする。15人制と同じフィールドで戦う7人制で、スピードは大きな魅力だ。4位入賞を果たした16年リオデジャネイロ五輪は、バックアップメンバーとして現地入り。だが、最終メンバーに故障者は出ず、ピッチに立つことはなかった。26日に迎える初戦を前に、母校である常翔学園高(大阪)の野上友一監督(63)から「最後は根性」とエールが届いた。

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東京五輪代表が発表された6月19日、野上監督の携帯電話が鳴った。代表合宿中の松井からだった。

「五輪メンバーに入りました。石田も横にいます」

常翔学園の後輩で明大3年の石田吉平と共に、選出の報告があった。短いやりとりを終えると、野上監督は松井にメールを送った。

「最後は根性やな!」

教え子も言葉の意味を理解していた。

「根性、見せます!」

大工大高として長らくラグビーファンに親しまれ、08年に常翔学園と改称された。全国高校大会(花園)優勝5度。最後に日本一となった12年度、御所実(奈良)と戦った決勝の後半21分に逆転トライを決めたのが松井だった。

校名は変わっても、練習場は変わらない。大阪市内にある校舎横の淀川河川敷。土のグラウンドで楕円(だえん)球を追い続ける。

地元住民が犬を散歩し、ジョギングで汗を流す。そんな練習場から少し歩くと、堤防へ上がる坂がある。地面はアスファルトで長さ約50メートル。ここが松井の原点だ。野上監督は振り返る。

「練習が終わると、松井はいつも坂に行っとった。上がるのはもちろん、下りは脚の回転が早くなる。神経系のトレーニングにもなる。石田も坂の上から来る2人を、ボールを持ってパパンッと抜いていました」

松井が頭角を示したのは2年の夏。ニュージーランド遠征で「アイツ、走ったら結構いけるな」と目に留まった。WTBで起用されると、現地の相手を外側に振り切った。当時、フルタイムのコーチはいなかった。野上監督は細かな部分を選手に考えさせ、練習後に坂へ向かう姿を見守ってきた。3年となり「松井に任せたら、何とかなるわ」と絶対的な信頼が生まれた。

卒業後に進んだ同志社大4年時には、リオ五輪にあと1歩で届かなかった。現地まで同行しながら、チャンスは巡ってこなかった。東京五輪に懸ける思いは強い。野上監督が受け取ったメールには、こうあった。

「リオ五輪の悔しさもあるので、借りを返せるように、日本の代表として頑張ってきます!」

最後は根性-。河川敷で鍛えた自慢の足を信じ、初のメダルをつかみにいく。【松本航】