1968年(昭43)8月23日。森保一は、この世に生を授かった。その約2カ月後。10月24日。メキシコオリンピック(五輪)。エース釜本擁する日本は、3位決定戦でメキシコを破り、日本サッカー史に名を刻む銅メダルを獲得した。

月日は流れた。赤子だった森保は、サッカーに触れ、サッカーを職とした。プロの選手としてキャリアを積み、日の丸を背負った。現役引退後は、指導者として経験を積み、日本代表の監督の座にまで、上り詰めた。

日本が歓喜に沸いた約10万人のアステカスタジアムでの勝利から53年後。舞台は東京五輪。無観客の埼玉スタジアム。5日、公式会見に臨んだ森保監督は「銅メダルへの気持ちが強い方が勝つと思う」と言った。

生まれ年に、日本が初のメダルを獲得した縁。自身のルーツも重なる。今日は8月6日、原爆の日。森保監督は8月9日に原爆が投下された長崎の地で育ち、1つ目の原爆が落ちた広島の地でプロのキャリアをスタートした。日本国民のみならず、世界中の人が思いをはせる1日。森保監督は、涙ながらに言った。

森保監督 五輪という意義は、平和の祭典ということでも認識もしている。

メキシコ五輪で日本に銅メダルをもたらした長沼健元監督(享年77)は被爆者手帳を持っていた。広島市出身で、自転車で帰宅途中、被ばくした。15歳で経験した悲劇。生涯、後遺症に苦しみながらも日本サッカー界の発展に尽力した。そうしてつながれたバトンは今、森保監督がしっかりと握っている。

日常は当たり前ではない。「平和であるからこそ、スポーツの祭典ができる。平和であるからこそ、大好きなことができる。平和をかみしめて、五輪を最後まで臨みたい」。午前8時15分に黙とうをささげる。キックオフは午後6時。雌雄を決す。【栗田尚樹】