萩野公介(26=ブリヂストン)は、1分57秒49で6位だった。100メートルを3番手で折り返したが、後半に伸びを欠いた。

準決勝は全体6位通過。敗退を覚悟していただけに、レース後は「神様がくれた贈り物としか思えないぐらい幸せ。うれし涙以外の何ものでもない」と号泣。16年リオデジャネイロ五輪で金メダル、銀メダル、銅メダルをとった男が1本の決勝進出を心から喜んだ。

リオの栄光から一転、苦難の道を歩んだ。17年世界選手権はメダルなし。「練習しなくちゃ」とがむしゃらに泳いだ。18年1月に高熱と体調不良で3週間、入院。肝臓の数値が異常だった。医師は「高齢者なら死んでる」と顔をしかめた。だが「絶対安静」なのに休むことに罪悪感を感じて、バイクをこいでしまう。医者から「動いたら死ぬ」と厳しい口調で警告された。

病室で1冊の本を読んだ。1902年(明35)青森の陸軍歩兵連隊による八甲田山雪中行軍遭難事件。大隊長の指示に中隊長が意見できず、210人中199人の死者を出した。萩野は読み終えると「僕、中隊長の気持ちがわかるんです」と漏らした。期待に応えたい、課題をクリアしたい。そのために命の危険に気づけなかった。病室を見舞った同学年の瀬戸大也、大谷翔平から励まされた。だが理想と現実のギャップに心がきしんでいった。

19年春のモチベーション低下を理由に3カ月、休養した。丸刈りにして、ドイツに1人旅。大好きな世界遺産を見て回った。しかし心は晴れない。12年ロンドン大会の銅も含めて、五輪メダルは4個もある。「辞めようと思えば、やめられたと思う。でも辞めるのは今じゃないなと思った」と、プールに戻っていた。

復帰後も一進一退だった。今大会も予選落ちも覚悟して200メートル個人メドレーに臨んだ。予選は復帰後最速の1分57秒39、そして準決勝も1分57秒47で通過。1本ずつ泳げるレースが増えた。「3本泳げるかどうかわからなかった。3回も泳げるなんて幸せだな」。苦難を乗り越えて東京五輪にたどり着いた道のり、そして敗退の不安と向き合ってレースを勝ち抜いた2日間。「(リオ五輪後)僕自身もいろんなことがありましたし、海外の選手も難しい時間を過ごしてきた。その中で8人に残れた。これ以上のことはない」。全力で決勝を泳ぎ切った萩野にもう涙はなかった。