東京・中央線沿いの住宅街を歩いていると、キンモクセイの甘い香りがフワッと漂ってきた。この匂いを嗅ぐと、4年前の記憶が鮮明によみがえってくる。
2018年9月末、余命数カ月と宣告された元サッカー部員、杉浦行(こう)君の自宅を訪れて話を聞いた日のことを。長いインタビューを終えて外に出ると、昼間の雨は既に上がり、きれいな夕暮れ空が広がっていた。オレンジ色に輝く空間、そこへキンモクセイの香りが漂った。鼻腔(びくう)に匂いが広がった瞬間、モヤモヤしていた気持ちがスッと晴れた。
くしくもその時と同じ道を、その時と同じ時期に歩いている。残念ながら、そのコウはもういない。
「9月いっぱいで転勤することになりました。愛知県に戻ります」
コウの両親から連絡をもらい、最後に会いに行って手を合わせておこうと訪問した。
社宅となっている集合住宅の玄関は空いたまま。そこには先客がいた。
「今日まではオープンにしています。転勤するとなって、みんなが会いに来てくれます。愛知県に戻ってしまうと、なかなか来られないですからね」
両親はうれしそうにそう話した。
■壁にびっしりと貼られた写真
愛知県出身のコウ。中学卒業後、東京へ単身赴任していた父を追うように2015年春に家族そろって上京し、元日本代表の中村憲剛を輩出した東久留米総合高校へ進学した。強豪サッカー部員として活動していた2年の秋、骨のがん「骨肉腫」を左足大腿(だいたい)骨に患っていることが判明した。それから2年に及ぶ闘病生活を経て18年11月末、19歳の若さでこの世を去ることとなった。
遺影と遺骨が置かれた自室。その壁にびっしりと仲間との写真が貼られている。記念品や思い出のアルバム集、また友人を介して交流があった元日本代表選手の斎藤学選手のサイン入りユニホームも飾られている。いつも笑顔がたえず、多くの仲間に囲まれていた。その楽しげな高校時代の姿に触れられる空間となっている。
高校のサッカー部は同期だけで約90人の大所帯だ。誰とでも気軽に話をするコウは、女子マネジャーや女子サッカー部員たちとも仲良しだった。それだけにショックも大きかった。葬儀当日、式場の外まで続く長い列があった。多くの仲間が見送った。あれからもう4年の歳月がたとうとしている。
コウがいなくなった家には、その後も仲間たちが足しげく通った。いわば、たまり場。コウには10歳下の妹がいるが、「兄代わり」とばかりに次々といろんなお兄ちゃんやお姉ちゃんが訪れ、かわいがってくれた。いろんなところにも遊びにつれて行ってくれたのだという。
「コウがおらんようになって、さみしいのを乗り越えてきた仲間というか。実際に乗り越えられたか分からんけど、一緒におってくれたからね」。母の紀予(きよ)さんはそう話した。
自宅を訪れる仲間たちをいつも笑顔で迎え入れ、他愛もない話をした。初めて聞く息子の話や、初めてみるような写真もあり、いろんな発見があった。高校時代の半分は闘病期間だったが、それでも父の剣太さんは「そこじゃないところをいっぱい覚えていてくれたりして、それぞれにコウとの思い出やつながりがあることが分かり、うれしくなりました」。
■この4年間で100回くらい来た
高校卒業から5年がすぎ、同期たちは社会人となっている。中にはサッカー選手や格闘家、はたまたモデルとなった者までいる。また、闘病期間を支えてくれた彼女は、コウの姿を見て管理栄養士となり、今は病院に勤務しているのだという。
「モデルになった子は、いつも大事な時にはコウに拝んでから行く。他にも何かうまくいった時にコウが見守ってくれた、なんて言う子もいたし、大学に入ってサッカー部で書くブログにコウのことを書いてくれた子もいた。それぞれの形で(心に)残っているようです」と言って、剣太さんは目を細めた。
この日「たまり場」にいたのは、サッカー部で同期だったリツキとタイチ。「この4年間で100回くらい来てます」と笑う。
リツキは学校でコウの車いすを押す「運転手役」だった。部屋に飾ってあった体育祭の写真が両者の関係を物語っていた。抗がん剤治療で髪の抜けたコウに合わせるように丸刈り頭にしたリツキが、借り物競争で車いすを押しながら疾走。脇にはコウの彼女もおり、3人が最高の笑顔でゴールしている。まさに青春の1ページというしかない。
一方のタイチは、部活動でコウと組んでフィジカルメニューをこなしていた仲だ。「だるい時はどうやってうまくさぼるか、とか。また、体育祭でふざけた写真を撮ったり、映画を見に行ったり、楽しい部分も共有していました」。
両親にとってこの4年間は、彼らが大人へと成長していく姿を見つめた時間でもあった。
「コウはいなくなったけど、他の子がいろいろと見せてくれる。彼女だった子は成人式の日に晴れ着姿で家に寄ってくれたり、就職がここに決まりましたとか、何かあれば報告に来てくれる」
リツキにいたっては、社会人として初任給を手にすると、コウの家族を外食へと連れ出してくれた。
剣太さんが言う。「たぶんコウが生きていたらやりたかったであろう、初任給でごちそうというのをリツキがやってくれた。『それはコウがやりたかったはずだから、自分が代わりにやりたい』って言ってくれて…」。
その隣でリツキは「自分の家族みたいなものだからね。自分の親もやるけど、こっちの親にもやるっしょ、って感じですね」と言って照れた。
■息子が残してくれた幸せな関係
今回の転勤は、みんなが集まれる場所が消えることを意味している。愛知県へ戻ってしまうと、東京からそう簡単に足を運ぶことはできなくなる。
引っ越しを控えた9月、今まで以上に多くの仲間が訪れた。そしてこの4年間、訪問してきた若者たちの姿を写真に収め、日付とともにアルバムに貼ってきた。高校時代のものもあるが、その思い出のアルバムは6冊にまで増えた。
インスタグラムのストーリーに笑顔で盛り上がる写真とともに、こんな一文がアップされた。
「この4年間で何回もお世話になった場所、気付いたらみんないた。さみしくなるなぁ」
思い出話に涙もあれば、笑いもあり。にぎやかで、どこか大家族のような空間が、杉浦家の食卓を温かく包み込んでいた。
「本当に終わっちゃうねって感じですよ。コウが残してくれた関係だし、場所です。彼らの姿を見て、時間がたったことを実感しています」
紀予さんの言葉は寂しさを隠せないものだった。
■胸に残る「思いっきりこけたい」
4年前のコウへのインタビューを思い出す。ぶしつけで無意味な質問だと理解しつつ、「東京に来なければ病気にならなかったとか考えたことは…」と聞いてみた。
すると、いつも前向きなコウが「あります。それこそ病気にならなかったんじゃないかと思います」と率直な思いを口にした。心の奥の悔しさが顔をのぞかせる。
しかしすぐさま「高校サッカーの3年間は楽しかったです。病気になる前も、なった後もすごく楽しかった。東京に来たのはいい選択だったと思います。友達に恵まれたのもあるし、とても楽しい3年間だったと思っています」といつもの笑顔を見せた。
主治医からはもうやれる治療法がないと涙ながらに通告された。それでも未来への希望は捨てていなかった。
「周りのこともあってまだまだ生きたいし、夢も見つかった。(義足の)アンプティーサッカーを知って、自分にもまだサッカーをやれる道があるんだと。病気が見つかって感じたことは、自分の中でサッカーは思っていた以上に自分の中では大きくて。できないことがつらい。見るのも好きなんですけど、なんかやりたい。思いっきりこけたい」
胸を締め付けられるとはこのこと。必死に生きようとしている19歳の言葉が心を大きく揺さぶった。
キンモクセイが咲く頃、その香りとともにコウの笑顔、あの部屋をずっと思い出すだろう。
人は亡くなっても、人の心に生き続ける。思い出はずっと死なない。【佐藤隆志】