耳は、使わない。「ほかのチームが『いい選手だな』と言っても、そうかなと思うの、たくさんあるよ」。

 映像も、見ない。「映像なんか見ない。わざわざ見ないよ。だったら見に行くもん」。

 現場で直接、目の当たりにした自分の「眼」だけを信じる。そして、直感も。「いつも選手をパッと見たときに、そこで感じるか、感じないかをすごく大事にするんだ。だから自分の目を信じる。これは、最初のころはなかったけどね」。

 そうして発掘し、鹿島アントラーズに導いた選手は47人(大学出身15人、高校出身32人)。3分の1の16人は日の丸を背負ってピッチに立った。柳沢敦や小笠原満男、中田浩二、本山雅志に始まり、現在では内田篤人や大迫勇也、柴崎岳、昌子源ら-。彼らの国際Aマッチ出場試合数は計360試合に上る。誰もが名スカウトと認める。その椎本邦一(しいもと・くにひと)スカウト担当部長が1日、60歳の還暦を迎えた。「あっという間だね。まさか、こんなに長くやるとは思わなかった」。過ぎゆく濃厚な年月を思い返していた。


 鹿島ユースの監督を務めていた94年12月に、現職への声が掛かった。それまでスカウトは強化部の担当で、専門の部署はなかった。それを新設する、と。ただ、部員はいない。最初の2年間は1人だった。年に「300試合ぐらいは見たと思うよ」。

 家を空けることなど、しょっちゅうだった。直前の10月に第2子となる長男が生まれたばかり。たまに帰って風呂に入れると、大泣きされる。知らないおじさんだと思われていた。

 スカウトの仕事も同じだった。「(前身の)住友金属で選手はやっていたけど、そんなに強いチームじゃなかったし、代表に入っていたわけじゃないからね。最初のころは、顔を覚えてもらうのがなかなか…」。名刺を2、3枚渡した高校の先生もいた。無我夢中だった。

 最初に手がけた選手は96年の柳沢、池内友彦、平瀬智行の3人。やれる-。そうつかみかけた自信は翌年、いとも簡単に崩れた。97年の獲得者はゼロ。端的に「振られた」という。「正直、落ち込んだよ。もうやめようかと思ったもの」。救われたのは「しょうがないよ」という、強化部長の鈴木満氏の言葉。そこで思いを改めた。「縁なんだよね。赤い糸なんだ。失敗したら、縁がなかったんだ」。目に見えない赤い糸を信じるだけ。すると翌98年、小笠原、中田、本山と山口武士、中村祥朗の5人の有望株と、縁がつながった。ユース出身のGK曽ケ端準を加えた「黄金世代」の誕生だった。


 これまで縁あった47人のほとんどがリーグ戦の出場を果たした。挙げた総得点は547点。チームの全1489得点の4割近くを占める。携わった選手の活躍は、もちろんうれしい。興梠慎三や19歳の安部裕葵ら“無名”から見いだし、大成したときの喜びも大きい。だが、未出場のまま鹿島を離れた選手も、4人いる。「レギュラーになった子たちは良いんだ」。離れざるを得なかった選手たちの人生の方こそ、重く受け止める。

 「みんながみんな、成功するということもないからね。3年ぐらいやって試合に出られず、移籍しなきゃいけない子の方がすごく気になる。そういうときはちゃんと、親や学校の先生に連絡します。『成功させられなくてすみません』と」。

 そこには以前、ある親から言われた言葉がある。「私らはスカウトの人を信用して、スカウトの人に預けるんです」。選手の人生を預かる仕事-。スカウトの仕事を、そう受け止める。だから、入団前に甘い言葉はかけない。「厳しい世界だということは、絶対に言う」。その上で、力を認めていることを伝える。成功を収めた選手に共通しているのは「向上心。うまくなりたいという気持ち」。それをうながすために、褒めることはめったにしない。これからも変わらない。


 還暦は迎えた。だが終わりじゃない。まだまだ、鹿島に合った選手を見いだす楽しみを続ける。「だいたいさ、スカウトが表に出ちゃ、いけないと思っているんだよ。表に出るのは選手やスタッフ。そういうつもりでやってきたんだから」。だから「還暦取材」も最初は断ろうとしたという。それをクラブと番記者、双方の企て? によって引き受けさせられた“仕事”。「おめでとうじゃねえよ」と言う照れくさそうな姿に、やっぱり「おめでとうございます」と言いたくなる。

 ◆今村健人(いまむら・けんと) 1977年(昭52)、さいたま市生まれ。サッカー少年時代、セルジオ越後氏に股抜きされ、オウンゴールをさせられた。入社後、静岡支局をはさんで06年トリノ、12年ロンドン両五輪を経験し、大相撲担当も延べ6年経験。