日本代表の森保一監督(49)の高校時代を支えたのは、恩師の厳格な指導だった。長崎日大高の下田規貴(きよし)元監督(71)は、無名の中学生だった森保を特待生として招き、プロの道へと導いた。

 下田は森保らを指導した当時の感覚をはっきりと覚えている。「まず、生徒を戦士にしなければならなかった」。県内では小嶺監督率いた島原商、国見がエリートを集め、頭1つ抜けて強かった。「普通のことをしたって勝てない」。練習試合で他校に出かけたら、帰りの10キロをランニングしたこともあった。

 森保について「誰とでも分け隔てなく付き合うことができた」と、変わらない温和な人柄を回想した。一方で「やんちゃな子でもありました」。当時は喫煙やバイクを乗り回す部員もいた時代。お人よしな性格から、悪い仲間に合わせてしまう部分もあった。校則違反をしていることが分かった時には、練習場の端から端まで100メートル、鉄拳制裁が続いたこともあった。

 それでも森保はついてきた。2年の夏。大会で島原に遠征した際、森保は左腕を骨折していた。試合の前夜、下田は森保を風呂に呼んだ。「中盤は、おまえがいないと回らない」。鬼軍曹のつぶやきを聞いた森保は、ギプスで固められた左腕を浴槽に突っ込んだ。そのままお湯にひたし、石こうを溶かしてしまった。翌日はテープをぐるぐると巻くと、チームメートにも驚かれながらピッチを走り回った。

 人望厚い人柄に負けん気の強さ。下田は感じた。「この子なら、プロとしてやっていけるかもしれない」。森保が2年だった正月、マツダで当時監督を務めた今西和男へ年賀状を出し、直筆で書き添えた。「うちに森保という選手がいる。よければぜひ1度見てみてほしい」。当時は、広島で毎年行われる大会で偶然知り合っただけの間柄。教え子を推薦するのは初めてだった。高校まで見に来た今西は「足が速いわけではないが、非常に姿勢がいい」と評価。下田は森保と今西氏をつなぎ、森保にプロの道を開かせた。

 森保は現役引退後も、指揮官として力を発揮。広島の監督としてJ1を4季で3度制した。初優勝を果たした日の夜、2人は電話で話した。下田は伝えた。「いつか、日本代表の監督になれるように頑張れ」。森保は、受話器の向こうで控えめに笑うだけだった。(敬称略)【岡崎悠利】