日本代表を7大会連続のW杯に導いた監督の森保一(53)とコーチの横内昭展(54)。2人が出会ってこの春で丸35年がたつ。Jリーグ広島の前身マツダ時代から2人を先輩、強化部長、社長として見守ってきた織田(おりた)秀和(60=J2熊本GM)は、その関係を「一心同体」と表現した。(敬称略)
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11年11月、当時広島の強化部長だった織田は、新潟市内で森保との交渉の席にいた。広島は6年続いたペトロビッチ監督(現札幌監督)の退任を決め、新潟のヘッドコーチだった森保に後任監督を要請した。
その際、森保が受諾の条件に出した1つが「ヘッドコーチに、横内さんを入れてほしい」だった。広島でコーチ9年目だった横内は、ペトロビッチ監督の退任に責任を感じ、既に織田に辞意を伝えていた。森保はすぐに横内に電話し、何とか踏みとどまらせた。
森保の就任1年目、12年から広島はJ1で連覇した。織田は「小さな地方クラブが王者になるとは…正直、すげえなと思った」。その言葉は、2人の指導者への評価でもあった。
「秀逸のコンビだった。長年課題の守備を森保が、攻撃はペトロビッチの流れを継承した横内が手を付け、総合的な判断は森保がした。強固な関係で一切の水漏れ、不協和音はなかった。一心同体だった」
森保と横内が出会い、今春で丸35年がたつ。長崎日大高を卒業した87年、森保は広島の前身マツダに入った。1年先輩の横内は、先に東海大五(現東海大福岡)から入団していた。
2人が広島のMFだった94年、当時26歳の横内は愚直にプレーする後輩に「尊敬する人物は森保。常に自分の責任を果たしている」と公言した。私生活では毎週、欧州の試合を2人でテレビ観戦し、サッカー観をぶつけ合った。やや神経質な森保に、おおらかな横内。相性は抜群だった。
森保は東京五輪を目指す際に「横内コーチのコメントは、僕の言葉」と全幅の信頼を置いた。過酷なW杯予選でも、森保は孤独ではなかった。
「森保はリーダーではあるけれど、過度な態度は見せない。年が1つ上の横内も賢い子だから森保をリスペクトし、意見が違っても、最後は女房役として全力でサポートした。そんな横内を森保も信頼していた」
織田が強化部長から社長へ昇格した15年、森保政権4年目で3度目の優勝を飾った。森保が成績不振で退任する17年途中まで、広島は黄金時代を築いた。
「当時の森保の采配に意外性はなかった。基本、堅い。周囲に何を言われようが、ぶれない。全情報を集めた上で、勝つためのメンバーを選ぶ。今回の日本代表も結局、メンバーはほとんど入れ替えていない。信念を貫き通せる強さがあるから、広島で3度も優勝できたんです」
監督とコーチの関係が11年目に入った森保と横内は東京五輪を経て、W杯本大会へと向かう。GKコーチを務める下田崇、フィジカルコーチの松本良一も広島時代から続く、森保ファミリーだ。
「この仕事は結果がすべて。代表だと『負けてぼろくそ、勝って難癖』をつけられ、重圧は半端じゃない。それでも森保、横内らしく戦ってほしい」
J2熊本の強化責任を負う織田は、後輩たちの活躍を祈っている。【横田和幸】(つづく)
◆織田秀和(おりた・ひでかず)1961年(昭36)4月22日、広島市生まれ。広島大付高、筑波大を経て84年マツダSC入り。MFで活躍も森保の台頭で91年3月に引退。92年以後はJリーグ広島でスカウト、強化部長、社長などを歴任。18年J2熊本GM就任。

