高校サッカーの名門、鹿児島実の監督や総監督を務めた松沢隆司(まつざわ・たかし)氏が、11日午後6時55分、多臓器不全のため鹿児島市内の病院で亡くなった。76歳だった。この日、鹿児島市内で葬儀・告別式が行われた。故人の生前のご功績を偲び、2005年1月11日の記事を振り返ります。

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<全国高校サッカー>◇決勝◇10日◇国立競技場

 ついに念願がかなった。鹿児島実(鹿児島)が、市船橋(千葉)をPK戦(4-2)で下し、悲願の単独初Vを達成した。J清水入りが内定しているDF岩下敬輔主将(3年)を中心とした堅守で、110分を守り抜いてPK戦へ。GK片渕洋平(3年)が3人目を止めるなどの活躍で制した。95年度に静岡学園(静岡)と同点(2-2)で両校優勝して以来、9大会ぶり2度目の栄冠。00年度大会から完全決着となっており、初の単独優勝の味に、41年間チームを指導してきた松沢隆司総監督(64)も男涙を流した。

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 胸の高鳴りを、しっかりと感じていた。PK戦の末に市船橋に勝利。お立ち台の鹿児島実・松沢総監督の目は潤んでいた。95年度に初優勝も、静岡学園と両校優勝。悲願の単独初Vだった。「優勝は鹿児島の小学、中学の指導者のおかげです。この試合で感動してもらえれば、全国の指導者仲間に恩返しできたかなと思う」。イレブンに胴上げされ、3度、宙を舞った指揮官は、ズレた眼鏡を掛け直した。

 松沢総監督の「秘蔵っ子」DF岩下主将が、イレブンを見事にまとめ上げた。総監督とチームリーダーの間には約束事があった。「相手のヤジに過剰反応しないこと」-。岩下はもともと、気性の激しい性格で、審判の判定に不満な表情を見せることも多かった。岩下には「一発退場」のリスクが常につきまとった。だからこそ松沢総監督は「闘志を内に秘めろ」と、しかり続けた。DFラインを統率し、攻撃でもロングボールの起点となる男は、チームにとって必要不可欠だった。前半5分。岩下は接触プレーで右足を踏まれ、ピッチにうずくまった。「(けがして)どうなるかと思ったけどみんなに励まされた。松沢先生を泣かせることができてうれしい」。卒業後、J清水入りが内定している岩下は、110分間、市船橋攻撃陣にツケいるスキを与えず、PKでも「先鋒(せんぽう)役」としてキッチリ決めて、勝利を呼び込んだ。

 命がけだった。松沢総監督は、78年度選手権初出場1勝を祝って、関東同窓会から寄贈されたマイクロバスで翌年から遠征を開始。焼酎を30本積み込み、国見の小嶺総監督はじめ、全国の指導者と焼酎を酌み交わしてサッカー指導法を教わった。そして99年6月25日。不整脈のため約6時間におよぶ心臓手術。「サッカーを取るか、酒を取るかと言われてね。サッカーが好きだからね」。本人によると手術中、心臓は1時間20分、止まっていたかどうかというほどの大手術だった。遠征先で発作が起きるケースに備え、全国の病院の診察券26枚を所持。復帰したその年に選手権決勝で敗れた市船橋に、リベンジした。和子夫人(56)が振り返る。「夜、不整脈が出て、病院に点滴を受けにいったこともある。つらくて…、正直…、心臓が悪い人だったら一緒にならなきゃよかったと思ったこともあった。心配だけどサッカーが好きな人だから、優勝できてよかった」。指揮官から「総・総監督」と呼ばれる夫人も、スタンドで思わず泣き崩れた。

 「PKで勝ったけどまだ、完全なる単独優勝ではない。引き分けだと思っている。もう1つ目標ができた。18歳の子供たちといるので、私も18歳のつもり。まだ青春ですから」。指導41年間の末に、ようやくつかんだ単独Vも「通過点」。90分間の末の「真の王者」まで、松沢総監督の内なる闘志が衰えることはない。

 ◆松沢隆司氏(まつざわ・たかし)1940年(昭15)10月19日、鹿児島市生まれ。中学2年でサッカーを始め、鹿児島商に進学。選手権は第37回大会(58年度)にDFとして出場。専門学校を経て、64年に鹿児島実の電気科教諭に。赴任と同時にサッカー部コーチとして指導を始め、66年に同校監督に就任。趣味は温泉。