長崎・国見高でサッカー部監督を務め、全国高校選手権で、戦後最多6度の優勝を成し遂げた小嶺忠敏さん(現長崎総合科学大付監督)が7日午前4時ごろ、長崎県内で亡くなった。
76歳。昨年末に開幕し開催中の第100回全国高校選手権にも、長崎総合科学大付は出場していたが、初戦から体調不良でベンチ入りできていなかった。
国見を全国屈指の強豪に育て、多くの日本代表選手も輩出。日本サッカーの発展に貢献した大功労者だった。
小嶺さんの、国見を強豪へと育て上げたその情熱的な指導を、2013年12月24日付日刊スポーツ紙面から振り返る。
(年齢、所属など、すべて当時のもの)
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「小嶺イズム」で国立最後の頂点へ-。2013年度の長崎県代表、長崎総合科学大付を率いる小嶺忠敏総監督(68)は、長崎・国見を戦後最多6度の選手権優勝に導いた。84年の赴任当時の弱小国見を情熱的な指導と革命的な戦術で常勝軍団に鍛えあげた、まさに「聖地伝説の名将」だ。31日の初戦は格上の富山第一。百戦錬磨の経験を武器に、最後の夢舞台を目指して再び旋風を巻き起こす。
「小嶺イズム」で国見が達成した6度の選手権優勝は、今でも「聖地の伝説」として語り継がれる。03年度までに帝京(東京)と並ぶ戦後最多の優勝を積み重ねた。中でも小嶺総監督は「監督をして20年。やっとここまで来たかという思いだった」と、87年度の初優勝を振り返る。
88年1月8日、5万5000人で埋まった国立競技場の決勝。当時は斬新だった3-5-2のシステムで、ロングスローの多用や相手の布陣に合わせポジションチェンジする「カメレオン戦法」で、東海大一(現東海大翔洋=静岡)を1-0で下した。胴上げされた監督の100キロの巨体が高々と宙を舞う。血のにじむ努力が報われ、男泣きした。「先輩が歴史をつくってくれたおかげで、後輩も国立行きが夢じゃない意識があった」(小嶺総監督)。初Vを礎に伝統が築かれていった。
情熱のたまものだった。「こくみ」と呼び間違えられるほど無名の国見を、84年の赴任当時から心血を注ぎ常勝軍団にした。私財を投じて遠征用マイクロバスを購入、病院を借り上げて選手寮を確保した。一方、卒業生に「モルモットにしてすまなかった」と謝るほどのスパルタ指導で鍛えた。365日練習漬けで、試合数は公式戦を含め年間400。遠征では朝食前の試合を「モーニング」と呼ぶ、1日最大6戦。00年度VメンバーのFW大久保(現川崎F)も「血ヘドを吐くようなきつさに逃げそうだった」という。
68年に赴任した母校の島原商時代が原点だ。部員13人からの指導者人生のスタートだったが、「鬼」と呼ばれた厳しい指導で古豪復活を遂げた。在任中、優勝はなかったが、83年度まで同校を12度の選手権出場に導いた。
今回の選手権は、小嶺総監督が「あこがれの聖地、夢の場所」という現在の国立を目指す最後の大会となる。08年から総監督を務める長崎総合科学大付の初戦(31日)の相手は、高円宮杯U-18プレミアリーグに参戦した富山第一。だが「強いチームが勝つなら正月に長崎でモチを食って寝る方がいい。どこが勝つか分からないのが選手権。だからチャレンジする価値がある」。
12年度は初出場の同校を16強に導いた。「チャレンジ精神を忘れたら終わり」がポリシー。「小嶺魂」で、聖地最後の冬に新たな歴史を刻む。
◆小嶺忠敏(こみね・ただとし)1945年(昭20)6月24日、長崎県南島原市(旧堂崎村)生まれ。島原商でバレーボールからサッカーに転向。大商大を卒業し68年、赴任した島原商高のサッカー部監督に就任。73年度大会から11年連続で選手権に導くなど一時代を築いた。84年に国見高に移ると同校を06年度大会まで21年連続で全国高校サッカー選手権出場に導き、戦後最多の優勝6回を記録。06年3月に国見の校長を定年退職後も、総監督として指揮した。07年1月9日に総監督を辞任、夏の参院選長崎県選挙区に自民党公認で出馬も落選。V・ファーレン長崎社長などを経て、現在は長崎総合科学大教授で、同大付属高サッカー部監督も務める。



