「空前絶後」と称された箱根駅伝最古の区間記録を、15年ぶりに塗り替えた。

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中大のエース吉居大和(2年=仙台育英)が、1区で1時間0分40秒の区間新記録を樹立。2位駒大に39秒差をつけた。07年に東海大の佐藤悠基(当時2年)がマークした1時間1分6秒を26秒更新した。スーパールーキーとして注目された昨年は、3区で区間15位と不発。そのリベンジを果たすとともに、往路6位の原動力になった。

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吉居の独壇場だった。終始ハイペースを刻み、一番乗りで鶴見中継所へ。表情を崩さず、両手で伝統の赤色のタスキを2区手島駿(4年)へつなぐと、両拳を突き上げた。かつて「空前絶後の区間新」と言われた佐藤の記録を大幅に更新。「区間新記録は狙っていたというか、意識していたので取れて良かった」とうなずき、「自分のペースで行って出せたのは自信になる」。中大として21年ぶりの1区首位通過を果たした。

ひとり旅が続いた。5・6キロ付近から先頭集団を1人抜け出すと、10キロを27分58秒で通過。1万メートル自己ベスト28分03秒90を超える驚異的なペースで、2位集団に31秒差をつけた。15キロ通過は42分ジャスト。その差も1分20秒に広げた。「最初に30秒差と言われたときはまだ分からないと思ったが、1分以上ついて、これならいける」と確信。藤原正和監督(40)は「覚悟を決めた目をしていた。逃げると思ったが、あんなに速く行くとは。手放しにすごかった」とたたえた。

19年の全国高校駅伝を優勝した仙台育英(宮城)のエースとして入学した。しかし、前回大会は3区15位とブレーキ。直前の20年12月に東京五輪出場がかかる日本選手権があり、トラック中心の練習、体作りに時間を割くなど駅伝に向けて十分な距離練習を積めなかった。21年2月からは約3カ月間米国に渡り、武者修行した。現地の選手と練習を重ねる中で「自分が今、走っている距離が少ないと思った」。今季は夏合宿から距離を増やし、これまでの最長25キロを30キロまで伸ばすなど駅伝練習に注力。結果につなげた。

陸上一家で育った。父誠さんは鳥栖工(佐賀)で全国高校駅伝に出場し、トヨタ自動車でも活躍した。母美奈子さんも元ランナーで全国高校総体に出場。双子の弟大耀は中京大陸上部所属で、仙台育英の弟駿恭(3年)は中大に今春進学する。

中大は往路6位で、10年ぶりのシード権に1歩近づいた。個人として大きな野望がある。5000メートルで7月に米オレゴン州で開催される世界選手権出場に向けて「(参加標準記録)13分13秒50をターゲットに頑張りたい」。吉居伝説はまだまだ序章だ。【山田愛斗】

◆吉居大和(よしい・やまと)2002年(平14)2月14日生まれ、愛知・田原市出身。田原東部中、仙台育英を経て20年に中大法学部入学。自己ベストは1万メートル28分03秒90、5000メートル13分25秒87(U20日本記録)、ハーフマラソン1時間1分47秒。全国高校駅伝で17年に2区2位、18年に1区42位、19年に3区8位。21年箱根3区15位、同全日本で1区2位。家族は父誠さん、母美奈子さん、双子の弟で次男大耀さん、仙台育英の三男駿恭。168センチ、49キロ。血液型B。

★1区の主なロケットスタート区間賞

◆77年・石井隆士(4年=日体大) スタート直後から飛びだして独走。2位中大に1分22秒差をつけて、1時間4分9秒の区間新記録を樹立した。勢いづいた日体大は1度もトップを譲らず完全優勝した。同年に樹立した1500メートルの日本記録は27年も破られなかった。当時は世界選手権はなく、有力候補だった80年モスクワ五輪は日本がボイコットした。

◆94年・渡辺康幸(2年=早大) スタートから区間新記録の超ハイペースで集団を引っ張った。唯一、山梨学院大の井幡が食らい付いてきたが、19キロすぎに渡辺がスパートをかけて独走。最後は井幡に27秒差をつけた。前年に早大の櫛部がマークした区間記録を、56秒も更新する大記録だった。(95年世界選手権、96年アトランタ五輪代表)

◆07年・佐藤悠基(2年=東海大) スタートから飛びだして2キロで後続に250メートルの差をつけた。超ハイペースに13キロすぎに両足がけいれんを起こしたが、ペースを落とさず、2位東洋大に4分1秒の大差をつけて、94年に早大の渡辺がマークした区間記録を13年ぶりに7秒更新。中継局の日本テレビのアナウンサーは「空前絶後の区間新記録」と絶叫した。(11、13年世界選手権、12年ロンドン五輪代表)

◆11年・大迫傑(1年=早大) 大物ルーキーが前評判通りの快走で区間賞を獲得した。1・3キロ地点で集団から抜け出して先頭に立つと、11キロすぎに追走していた日大の堂本を振り切って独走。最後は2位堂本に54秒差をつけた。1時間2分22秒は歴代6位(当時)のタイムだったが、1年生としては当時の1区最高記録。(13、15年世界選手権、21年東京五輪代表)