第2次世界大戦の敗戦からわずか半年後の1946年(昭21)3月6日、日本で初めてのスポーツ新聞『日刊スポーツ』が創刊されました。東京は前年3月10日の東京大空襲で焼け野原が広がり、あらゆる物資が不足して、敗戦にうちひしがれた人々は、衣食住を確保して生きるのが精いっぱいでした。

日刊スポーツ創刊号の1面 1946年3月6日付
日刊スポーツ創刊号の1面 1946年3月6日付

ところが、1部50銭(1カ月20円)の日刊スポーツは、発売後すぐに1万5000部が完売したのです。終戦直後の50銭は国立博物館の観覧料と同じ価格。決して安くはありませんでしたが、活字と娯楽に飢えていた大衆は争うように買い求めました。他紙や雑誌と抱き合わせでなければ日刊スポーツは売らないという売店が続出しました。

その様子は映画にも描かれています。終戦直後の新橋駅前の交番を舞台にした1955年公開の『風流交番日記』(松林宗恵監督)に、駅前の新聞の売り子が「朝日と日刊スポーツは売り切れでーす」というシーンが出てきます。東宝の社長シリーズや『連合艦隊』で知られる松林監督は後に「私は外に出ると必ず日刊スポーツを買ったほどのファンでした」と明かしています。

当時は用紙不足から朝日新聞などの一般紙もブランケット判1枚(表裏)でスポーツの記事はほとんど扱っていませんでした。扱っても紙面の片隅に小さく掲載される程度。日刊スポーツはタブロイド判(ブランケット判の半分)でしたが、4ページすべてスポーツと芸能記事で埋め尽くされた画期的な新聞でした。

前年45年の秋から東京ではスポーツ復活への動きが出てきました。10月28日に神宮外苑球場で東京6大学野球のOB紅白戦が開催され、11月23日には同球場でプロ野球の東西対抗戦が開催され、千葉茂、藤村富美男らスター選手が全国から駆けつけ、スタンドに1万人を超える大観衆が詰めかけました。貧しく、苦しい時代だからこそ、スポーツの明るさと感動を大衆は渇望していたのです。

記念すべき3月6日付の日刊スポーツ創刊号の1面は、野球の投手を中心に各競技のスポーツ選手を配した生沢朗さんのイラストを使い「一路再開急ぐ、懐かしの六大学リーグ戦」の記事を掲載。当時の秋山慶幸社長が「発刊の言葉」を執筆しています。この言葉に創刊精神と、目指すべく決意が凝縮されています。ここに一部を抜粋します。

「日本のスポーツジャーナリズムは大部分がスポーツ評論であり、技術的批判であり、いずれかといえば高踏的であった。スポーツを本当に大衆のものとするためには、大衆とともに楽しめるものを作り上げなければならない(中略)スポーツを読者の手に、本当に楽しめるスポーツを、そして建設の苦難続くこの時期を明るく、朗らかにしようではありませんか」。

戦前の一般紙のスポーツ記事は戦評のような記事ばかりで、試合前後の取材や談話取りの習慣もほとんどありませんでした。日刊スポーツの記者は大衆目線で取材することをたたき込まれ、試合前にベンチやグラウンドで裏話やデータを集め、試合後も選手や監督の声を拾い、それを選手のプレーや試合進行に絡めた読み物にしました。これが、読者から熱烈な支持を受け、今のスポーツ報道の原型になりました。

46年は人気スポーツが次々と復活した年でもありました。4月27日にプロ野球「日本野球リーグ」が後楽園と西宮で開幕。5月19日には東京6大学野球が上井草球場で復活。8月15日には全国中等学校野球が4年ぶりに開催され、11月1日には第1回国体秋季大会も開催されました。スポーツをもっと知りたい、楽しみたいという世情に、スポーツ新聞は答えるものでした。創刊は時代の流れと合致していたのです。

47年に4万部、48年8万部と部数は急カーブを描いて上昇しました。しかし、当時は新聞用紙も配給割り当て制で、足りない分は高価なヤミ紙などを購入してまなかっていたため、売れるほど赤字になりました。経営難にも見舞われました。それでも75年間もの長い間、途絶えることなく発行を続けてこられたのは、スポーツとスポーツ報道が大衆に支持されてきたからだと思います。

新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言下という厳しい状況で75周年を迎えました。1年延期された東京五輪・パラリンピックはいまだ開催が危ぶまれています。しかし、人は暗い世相や苦しい時代にこそ、スポーツや娯楽を求める性質があります。スポーツ新聞が誕生したあの苦難の時代を今、あらためて振り返ると、スポーツの秘めた計り知れない力を感じるとともに、報道する立場の私たちも何だか力がわいてきます。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)