小学生の頃、大相撲に夢中だった。テレビ観戦に飽きたらず、全幕内力士をそろえた自作の紙相撲を楽しんでいたほどだ。毎場所楽しみにしていた一番が、麒麟児と富士桜の取り組み。突き押し力士の意地をかけた突っ張りの応酬は壮絶で、いつも白熱した。

麒麟児さんの突然の訃報に、当時の記憶がよみがえった。有名な1975年の天覧相撲での突っ張り合いが、富士桜と2人合わせて108発だったと知り、あらためて驚いた。まだ67歳。あの激しい相撲が命を削ったのか。古き良き時代の思い出が1つ欠けたようで残念でならない。

振り返れば、あの時代の力士は実に個性的だった。大好きだったのが陸奥嵐。相手のまわしに手がかかると、たとえ土俵の中央でも必ず豪快につった。荒勢のがぶり寄りは機関車のようだったし、横綱輪島の『黄金の左』から繰り出される左下手投げは、実に鮮やかだった。磨き抜いた技はどれも名人芸という趣きで、風情があった。

人気力士にはあだ名もあった。富士桜は『突貫小僧』で陸奥嵐は『東北の暴れん坊』だった。左をさしてしぶとく食い下がる旭国は『ピラニア』。投げやひねりなど多彩な技を持つ彼には『相撲博士』の異名もあった。かく乱戦法を得意とした小兵の鷲羽山は『ちびっこギャング』と呼ばれていた。相撲ファンはニックネームを聞くだけで、取り口が思い浮かんだ。

そういえば近年は得意技や取り口を象徴するような力士のあだ名を聞かない。引退した舞の海の『技のデパート』と高見盛の『ロボコップ』くらいで、なんだか寂しい。立ち合いからの突き押しで一気に勝負が決まる相撲が増えて、技の攻防が減ったことも一因かもしれない。『つり出し』や『うっちゃり』の決まり手は珍しくなり、熱戦の代名詞『水入り』もほとんど見なくなった。

熟練の技を磨き抜くのは時間がかかる。この半世紀で幕内力士の平均体重は124キロから160キロに増えた。体重を増やしてパワーをつけた方が手っ取り早いのだろう。確かに相撲内容は昔よりスピーディーで迫力があるが、どこか淡泊で味気ない。平成以降、社会は効率化と生産性にかじを切った。無駄をそぎ落とし、時間と労力をかけずに結果が求められる。力士の大型化とともに、そんな社会的な背景が土俵にも影響しているのかもしれない。

さて、『突っ張り』の富士桜と『つり』の陸奥嵐。いったいどっちの技が勝つのか。ともに関脇を経験した2人の職人対決もテレビ桟敷で楽しみにしていた。陸奥嵐に肩入れしていたのだが、なぜかいつも勝つのは富士桜。悔しくて紙相撲では陸奥嵐に手心を加えていた。ちなみに麒麟児というしこ名が小学生にはとても難しく、紙相撲力士の背中に書くのに難儀したことも一緒に思い出した。【首藤正徳】(敬称略)