プロ野球を統括する日本野球機構の元審判員で、6日に肺腺がんのため62歳で亡くなった渡田均さんの告別式が13日、東京・八王子市で営まれた。82年にセ・リーグ審判員として採用された。15年まで通算2778試合を任された、日本野球界でも有数の人だった。
渡田さんは審判に転身する1年前の81年春まで、ラグビーに打ち込んだ。大阪・関西大倉高から77年に名門大体大へ入学。偶然にも元ラグビー日本代表の名WTBだった坂田好弘氏(77)の監督就任と同時期だった。うさぎ跳びで片道100メートルを何本もランパス。坂田氏は「渡田の顔、必死に食らいつく姿は、今も覚えています」と懐かしんだ。
決して、華やかではなかった。ポジションはFW最前列のプロップやフッカー。1年時は関西リーグ最終戦の関学大戦で先発したが、以降は腰痛などの影響で公式戦から遠ざかった。大体大は全国4強入りを3度果たしているが、当時は大学選手権に届く前の草創期。ジャージーが白黒となったのは、4年になった時だった。同期で主将の松本隆正さん(61)は「渡田は下のチームのリーダーを務め、腐らず、親分肌で後輩に慕われた」と明かした。
一方で私生活は、おしゃれな服を着て、髪の毛を整える人だった。卒業後はスポーツメーカーへ就職。野球の審判への転身を機に上京した。85年4月のデビュー戦はヤクルト-広島戦(神宮)の左翼担当。それから18年後、03年の阪神-ダイエー戦を皮切りに日本シリーズを5度経験した。09年には第2回WBCに派遣され、晴れ舞台に立った。
5~6年前、大学時代の仲間20数人が大阪の焼き肉店へ集まった。それがみんなで宴を囲む最後になった。松本さんは訃報を伝え聞くと「まだまだこれからやったのに…。ショックです」。坂田氏も「ホンマか…」と言葉を失った。後進の育成に取り組んでいた渡田さんは、ジョッキを片手に「審判の技術はもっと高まる」と、いつまでも語っていた。どこまでも真っすぐで、どこまでも情熱に満ちた生涯だった。【松本航】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)