「スポーツと社会の距離」。長年、東京五輪・パラリンピックの取材に携わった中で日々考え続けたテーマだった。きっかけは新国立競技場の「ザハ・ハディド案」の白紙撤回だった。
整備費が3000億円規模にまで膨れ上がることが明るみに出て、国民の批判を買った。それを発端に、新国立問題は国民的議論となり、各方面からさまざまな意見が飛び交った。
中でも目立ったのが「陸上競技は集客力が弱く稼げないから、五輪後は球技専用スタジアムにすべきだ」というもの。つまり五輪パラ後に陸上トラックをはがしてそこに客席を増設し、サッカーやラグビーなどの球技専用にする案だった。
さまざまな議論が交わされたが、残念だったのが指摘された当該部門の陸上界だった。五輪にも出場経験がある有名OB、OGの論点が感情論にとどまったことだ。この時「スポーツと社会の距離」を如実に感じた。
私は正面からの議論が聞きたかった。例えば集客性の向上が見込める根拠をデータで示して陸上トラックの必要性を訴えたり、世界選手権を誘致できる戦略や、陸上界独自のレガシー計画を具体的に示してほしかった。
結局、政治と行政が中心となって議論し、その時点では大会後に「球技専用」となることが決まる(現在はトラックを残す方向)。
新型コロナウイルスの影響で東京大会が延期した際もそうだった。五輪開催に対する国民からの風当たりが強くなる中、スポーツ界から目立った意見が出ない。はっきりと意見表明したのは体操の内村航平だけだった。20年11月、五輪のテストイベントとして都内で行われた国際大会。閉会式のインタビューで言った。
「感染が拡大し、国民の皆さんの『五輪ができないんじゃないか』という思いが80%を超えている。しょうがないとは思うけど『できない』じゃなく『どうやったらできるか』を皆さんで考えて、そういう方向に変えてほしい。非常に大変なことであるのは承知の上で言っているのですが、国民の皆さんとアスリートが同じ気持ちでないと大会はできない」
このコメントに「具体的根拠がない」と指摘する人もいるかもしれないが、当時の世相に影響を与えた一言として、大いに意味のある議論だったと言えよう。
それまでは「選手が意見を言うべきではない」とか、「言うと損する」という声が大半だった。私は内村のようにアスリートもはっきりと意見を述べ、国民の議論に参加してほしいと思う。1人の立派な社会人なのだから。もちろんそれに対する「スポーツ選手が意見するな」という批判は言語道断だ。この場合、五輪開催への反対意見があるならば正面から内村と議論すればいい。
そして今、スポーツ界は来年2月の北京冬季五輪に向かっている。不運にも開幕まで2カ月を切るタイミングで、世界的にコロナのオミクロン株が流行し、スポーツ界も大きな影響を受けている。
政府の水際対策が強化され、日本への入国者は例外なく14日間の自宅待機を命じられることとなった。また、オミクロン株の感染例がある地域に滞在した入国者は、検疫所宿泊施設に数日間入らなければならない。
一方、政府は北京五輪への参加を目指す選手に対し、厳格な行動管理を条件に帰国後の待機期間中でも、練習を認める特別措置をとった。4年に1度の五輪。いや、それ以上に選手としてのピークが今度の五輪にしか合わない選手だっている。私は、とるべき緩和措置だと思っている。
ただ、この特別措置を受け、スポーツ界から国民に対し責任を持って、必要性や重要性を訴えたケースがあっただろうか。これでは東京五輪前に噴出した「五輪は特別扱い」という声が再び起こりはしないか。
競技団体がスポーツ庁と水面下で交渉し、緩和措置が認められれば、だんまりでいいのだろうか。「スポーツは特別ではなく、社会の一部でありたい」と話すトップアスリートもいる。
例えば統括団体である日本オリンピック委員会(JOC)が代表して説明し、国民に理解を求める機会があってもいいのではないか。日本における「スポーツと社会の距離」は東京五輪を終えた今でも、そう縮まっていないように感じる。【三須一紀】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)






