1979年(昭54)夏、久慈(岩手)はプロ注目投手がいる2校を倒し、初出場を果たした。導いたのは最速100キロ弱の2年生サイドスロー北田俊郎(現在52)。初戦で浜田(島根)に3-12で敗れたが、甲子園屈指の「スローボーラー」として、今でもファンの記憶に残り続ける。

79年8月、浜田戦で投球する久慈・北田
79年8月、浜田戦で投球する久慈・北田

 NHK朝のテレビ小説「あまちゃん」の舞台、岩手県久慈市。36年前の79年夏、久慈対福岡の岩手県決勝戦のテレビ中継を見ようと市内からは人が消えた。相手福岡はエース欠端光則(元ロッテ、横浜)擁する優勝候補。その日の優勝パレードを想定し、選手を乗せる自衛隊のトラックは福岡高校の地元、二戸市でスタンバイしていた。

 だが、福岡を3-1で下し優勝したのは久慈。完投した右サイドスロー北田は、カーブの握りからすべての球を投げ、直球の割合は1割。100キロ未満の「超スローボール」でゴロの山を築いた。その独特の投球法はケガの副産物だった。

 北田 エースで4番の大上さんが夏前に故障してしまい、春は10番だった自分が1番を背負うことになったんです。夏の大会1週間前から安定したピッチングにするため、上手から横手に変えました。だけど、使う筋肉がそれまでと違うから脇腹を痛めて。夏の2戦目からは投げる度に涙が出そうになるぐらい痛みが走りました。遅いボールを投げたくて投げたわけじゃない。でも相手は打てないんですよね。みんなスピードボールを練習していたはずなので、私のようなピッチャーが上にあがってくると思わなかったんじゃないでしょうか。

79年夏1回戦のスコア
79年夏1回戦のスコア

 決勝からわずか2週間。痛みを抱えたまま甲子園に乗り込んだ。

 北田 甲子園までの期間、ピッチングは一切しませんでした。初戦の直前、ブルペンで投げたら涙が出るぐらいキーンと激痛が走って。痛み止めを打ってもらおうと医務室に行ったら「君は2年生だから、長い目で見たら打つと良くない」と言われました。自分としては打って欲しかった。来年があるか分からなかったですから。

 延長が2試合あったその日の4試合目。試合が始まったのは午後5時半。途中まで北田はスローボールで浜田打線を2失点に抑えていたが、照明がつき始めた6回表に連打を浴び、5回2/3、8安打6失点でマウンドを降りた。

 北田 プロみたいで気持ちいいな、と思っていたんですが…。最初の3回は、ど真ん中の球を見逃したり、ボールが遅いから大振りしたりしていたけど、どこかで切り替えたんでしょうね。負けて悔しかったけど、「終わったなぁ」と淡々とした感じでした。

 翌年の春、久慈高は久慈、久慈商、久慈工の3校に分裂。当然、野球部の部員も3つに分かれた。「最後の年に行けたのは不思議な運命」と振り返る。3年時は久慈の主将を務めたが、夏は初戦で敗れた。

 高卒後に入行した北日本銀行では、軟式野球部で18年間プレー。天皇杯に4度出場した。引退した今でも甲子園の季節になれば、時間の許す限りテレビにかじりつくという。

 北田 あの時の自分の球は、ピッチャーのボールじゃなかったですね。自分が監督なら投げさせない(笑い)。でも、あの球場に入った瞬間、別の世界に行くような感じ。どんなところより輝いて見えました。みんなにも目指してほしいです。私でも行けたんですから。(敬称略)【高場泉穂】