「王将」「矢切の渡し」「風雪ながれ旅」など多くのヒット曲で知られ、戦後の歌謡史を支えた作曲家船村徹(ふなむら・とおる)さん(本名福田博郎=ふくだ・ひろお)が16日午後0時35分、心不全のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。84歳。栃木県出身。昨年11月に文化勲章を受章し、先月に祝賀会を行ったばかり。北島三郎(80)ら多くの歌手が、5500曲以上を世に送り出した偉大な作曲家の突然の死を悼んだ。

 「生涯現役」を宣言していた船村さんが、突然に逝った。元歌手の妻福田佳子さん(78)は「ピンとこない。家族がビックリしている」と、心の整理がついていない様子だった。

 佳子さんによると、16日午前11時ごろ、船村さんはベッドに寄りかかるようにしていたという。「風邪をひきますよ」と声をかけたところ、容体がおかしいので救急車で市内の病院に救急搬送。人工呼吸などの処置をしたが、そのまま息を引き取った。「前日の夕食に好物のカレーうどんを大きな丼で食べていたのに。最近少し風邪気味だったけど、まさかこんなことに…」と涙声で振り返った。

 昨年5月、心臓の人工弁置換手術を行った。7月に退院後は自宅でリハビリに励んだ。食欲もあり、葉巻を吸い、アルコールも飲むなど、見舞客も「家族にわがままばっかり言っていました」と驚くほどの回復をみせていた。それだけに、家族のショックも大きい。50年以上連れ添った佳子さんは「結婚当初に水ギョーザを作ってくれて、『これから毎週作るよ』と言ってくれたのが最初で最後になりました。最低のダンナ。でも、作曲家としては最高です。尊敬していました」と気丈にしのんだ。

 船村さんは「日本人のために大衆音楽を」という一念で84年の生涯を五線譜にささげた。東洋音楽学校でピアノと作曲を学んだが、生活が苦しく、流しの歌手をしたり、米軍キャンプで演奏をしたりして生計を立てた。早世した作詞家高野公男さん(享年26)と手がけた「別れの一本杉」が55年にヒット。少しずつ作曲家の才能を発揮し始めた。

 その後は、村田英雄さんの「王将」、北島三郎「風雪ながれ旅」、細川たかし「矢切の渡し」などのヒット曲を連発。日本人の繊細な情緒をくすぐるような哀愁あふれるメロディーが持ち味だった。毎年、自身の6月12日の誕生日に「歌供養」という催しを実施。ヒットしなかった楽曲を“供養”したのは、1曲1曲に魂を込めて作曲したためだった。

 遺作は最後の内弟子の村木弾(37)が4月19日に発売するシングル「都会のカラス」。亡くなった2月16日は、第2次世界大戦で戦死した兄健一さん(享年23)の命日だった。健一さんは文武に優れ、子ども時代の船村さんの憧れの存在だった。佳子さんは「『お前もそろそろいいだろう』と、兄が迎えに来たのかもしれません」と目頭を押さえた。

 ◆船村徹(ふなむら・とおる)1932年(昭7)6月12日、栃木県塩谷町(旧船生村)生まれ。東洋音楽学校(現東京音大)でピアノと作曲を学んだ。戦後初のミリオンヒット曲、村田英雄さんの「王将」など5500曲以上を作曲した。日本作曲家協会会長、日本音楽著作権協会会長などを歴任。95年紫綬褒章、08年に文化功労者に選ばれた。16年、作曲家としては山田耕筰以来2人目となる文化勲章を受章。横綱審議委員会委員も務めた。