ロンドン五輪銀メダリスト三宅宏実(30=いちご)がスナッチ81キロ、ジャーク107キロ、トータル188キロで銅メダルを獲得し、日本女子初となる2大会連続メダルの偉業を成し遂げた。「前回とは年齢が違うので(メダルの)重みが全然違う。色は銅でも一番うれしい」。リオ入りしてから持病のヘルニアが悪化。腰に痛み止めを打って臨んだだけに、大きな喜びが体を包んだ。

 絶望と希望。まるでここまでの4年間を凝縮したような試合だった。スナッチで81キロを2本続けて失敗。2本目のバーベルを落とすと、バーを持ったまま頭をぐたっと垂れた。残る1本を失敗すれば終わり。追い詰められた3本目で、バランスを崩しながらも成功。悲壮な表情から笑顔に変わった。得意のジャークでは最初の105キロを難なく成功。2本目の107キロはミスを指摘され、失敗。メダルをかけ再び臨んだ3本目の107キロ。「失敗したら日本に帰れないと思って集中して挙げた」。まっすぐ前を見据え、肩まで引き上げ、上へ。「やったー」。何度も跳びはね、いとおしそうにバーベルを優しくなでた。重量挙げの神様は三宅を裏切らなかった。

 アテネ、北京に続く12年ロンドン大会でスナッチ87キロ、ジャーク110キロ、トータル197キロを上げ銀メダルを獲得。日本女子重量挙げにとって初、そしてメキシコ五輪銅メダリストである父義行氏(70)と一緒につかんだ日本五輪史上初の父娘メダルだった。

 だが、そこから記録が伸び悩む。さらに14年末には腰痛を発症。練習出来ない日々が続き「やりたいことと体が一致しない。年齢的にもうだめなのかな…」と競技をやめることも頭をよぎった。それでも「やっぱり、やれるんじゃないか。きっといつか調子が上がるんじゃないか」という望みを信じた。じっと待ち続け、やっと手応えを感じたのは15年に入ってから。「この時を待っていた」。11月の世界選手権でスナッチ85キロ、ジャーク108キロを上げ、ロンドン五輪以来の国際舞台の表彰台に返り咲いた。その後、再び腰や膝を故障し満身創痍(そうい)の状態となったが、リオでの奇跡を信じた。

 支えられたのは「1日一生」の言葉。同じ日は2度と無い。今日1日を自分の一生と思って生きるという意味だ。昨年「重量挙げは毎日同じことの繰り返し。昨日出来たことが今日出来なくなったりする。パターンが一定化していないからこそ、面白い」と魅力を語ったことがあった。ケガや、30歳になり感じる体力の衰え。苦しんだ分だけ、バーベルを上げる喜びは深まっていった。「この日のために、4年間積み重ねてきた」。1日1日が、このメダルへとつながっていた。

 中学3年の00年。女子重量挙げが採用されたシドニー五輪をテレビで見て、血が騒いだ。競技を始めて16年。東京、メキシコ金メダルの叔父義信氏、メキシコ銅メダルの父義行氏に続き、日本重量挙げの歴史に名を刻んだ。昨年末には「ウエートリフティングが好きなので続けられるならやりたいんですけど、リオが終わった時の気持ちで考えたい。東京は出たいなという思いはありますが、そこまで欲張らずに」と話していた。これが集大成となるのか、東京を目指すのか。限界まで力を尽くした146センチの体を休め、決断する。