<オーストラリア発・記者コラム>
オーストラリア入りしてからのこと。FW本田に、阪神淡路大震災の思い出話をしてほしいと頼んだ。大阪府摂津市で育った28歳の彼にも、1月17日で発生から20年目を迎える当時の記憶があるはずだった。言葉を探るように、考えるそぶりをしていた本田は、ほんの少しの空白の後にこう言った。
「やっぱりそれは、俺じゃなくて(香川)真司か、オカ(岡崎)に聞いた方がいいよ」
確かに彼は、何かを言おうとしていた。それでも、大阪よりも被害の大きかった兵庫県出身の2人に取材をしてくれと、グッと言葉を飲み込んだのだった。
それから数日-。丸20年となった17日の練習後に、私は再び同じことを尋ねた。イラク戦から一夜明け、午前中にブリスベンで軽めの調整を終えた本田は、一通り今大会に向けた話を続けた。取材が終わって歩き去ろうとした時。私が「もう1つだけ」と、被災地への思いを聞くと「ああ、20年だよね」と言って立ち止まった。
我々記者は、全てのコメントを、記事にできるわけではない。でも時に、取材の過程で、胸に響く言葉や、エピソードに巡り合うことがある。そういう時には、全ての言葉を記事にしたいと思う。以下は、本田が17日に語った20年前の記憶の全てである。真夏のオーストラリアで、強い日差しに照らされながら、彼は1995年を思い返した。祖父母に育てられ、真っ暗闇の中で、激震におびえたあの日を-。
「当時、小学校2年生やったかな。確か。まあ、子供ながらに、真夜中、真っ暗でね。ろうそくの中で朝飯を食べたのは、人生でも初めてだった。怖いもなにも分からなかった。自分の家はたまたま壊れなかったけれどね。でも、壊れてしまって、命を落としてしまった人もいる。6000人くらい亡くなったんですよね?
本当に日本は自然災害が多いなということに尽きるんですけれど。まあその、忘れがちになるんでね。こういう1つの節目の日に、またみんなが、その悲しさというか、大事な、忘れがちなものを思い出すきっかけになればいいと思う。
それが自分の仕事とか、生き方、日々の行動にね、生かされれば、もう少し日本も素晴らしい国になるんじゃないかなと思います。
(自宅は)揺れたどころじゃないです。祖母がね、食事の用意をしているような時間だったんですけれどね。祖母が僕が寝ているところに走って、僕のところまで来て、抱きかかえてくれたのを覚えています」
遠くを見つめるように、そうやって当時の記憶をたどっていた。話し終えると、去り際に、振り返ってこう言ったのだ。
「あんまり、家族のことは話したくないけれどね」
確かに、彼が家族の話をするのは珍しいことだ。被災地への思いとともに、まだ幼い本田を守ってくれた祖母へ。感謝の思いを伝えたかったのだろうか。本田圭佑の人間らしい一面を、垣間見た気がした。【日本代表担当=益子浩一】

