元プロ陸上選手の経験をもとに障がい者スポーツにも関わる為末大氏(37)が、国際パラリンピック委員会(IPC)の陸上世界選手権(10月22~31日、カタール・ドーハ)を現地取材した。義足の進化とともに躍動する選手たち。その可能性に驚く一方で、運営面などの課題も見えた。2020年東京パラリンピックをよりよいものとするために、問題点について考えた。

  ◇  ◇

 会場にどよめきが起きた。大会2日目、10月23日の男子走り幅跳びT44。マルクス・レーム(ドイツ)の最初の跳躍は、8メートル50センチを優に超えていた。惜しくもファウルだったが、4回目の跳躍で、IPCの世界記録を更新する8メートル40センチで優勝した。この記録は12年のロンドンパラリンピックのみならず、同オリンピックの優勝記録(グレッグ・ラザフォード、英国=8メートル31センチ)を超えていた。

 マルクスは右足下腿(かたい)を切断しているパラリンピアンで、下腿部分にはカーボン素材で作られた義足が装着されている。彼はそのカーボンで作られた義足で跳躍する。私は20年にパラリンピアンがオリンピアンを逆転すると思っていたが、もしかすると来年のリオデジャネイロで逆転現象が起きて、世界記録もパラリンピックの方が上回ってしまうのかもしれないと感じた。

 パラリンピックの最大の特徴は、“する”スポーツとして発展してきたことだ。もともとは1948年に医師グッドマンの提唱により、英国で傷痍(しょうい)軍人が自らの自信を回復するために行われたのが起源とされている。

 ところが近年のパラリンピックの発展はめざましく、“観る”スポーツとしても面白さを増してきた。12年にはオスカー・ピストリウス(南アフリカ)がオリンピックに出場したりと、障害を乗り越えた人たちの努力に拍手する大会から、観客がパフォーマンスを楽しむ超人たちの祭典になりつつある。

 もしパラリンピックを観るスポーツとして捉えるなら、運営面で考えなければならない問題があるように感じた。

 陸上のパラリンピックは、障害の程度によってクラス分けがなされている。視覚障害、下腿・大腿切断、まひ、すべてのカテゴリーを合わせると全部で213種目(男子121、女子92)もある。100メートルだけでも全部で30人(男子16、女子14)の金メダリストが誕生する。すべての種目の表彰が試合中に行われるが、例えば、走り幅跳びの決勝が1時間ほどで行われている中、表彰の回数は5回程度あった。

 勝者をたたえるのは素晴らしいことだ。だが一方で運営から考えると、表彰の度に1~2分の間、優勝国の国旗掲揚を待つことになるから、選手たちは毎回競技を中断し、観客たちも立ち上がり国歌を聞くことになる。元選手の立場からすると、少なからずパフォーマンスに影響があると感じたし、観客としてもいいところで中断され、もどかしい思いもあった。

 また、競技数が多いため世界陸上(9日間)よりも長い、10日間の競技日程で行われている。開催側としては健常者の世界大会ほど放送権も入場料も入らない中で、ボランティアを準備し、長期間の競技運営体制をとらないといけなくなり負担が大きくなる。今の形では裕福な国以外での開催は難しいだろう。

 さらに競技数が多くなれば、それだけ選手がばらけてしまい、1つ1つの競技のレベルが上がりにくくなる。サッカーがあれだけの人気スポーツなのはすべての才能がサッカーに集約されるからで、観る競技として考えるなら、才能をいくつかの競技に集中させた方が勝負は面白くなる。

 もしパラリンピックを観戦者に配慮した大会にするとしたら、私は競技数を絞り、表彰もすべての試合が終わった後にすべきだと考えている。クラスは絞らず、例えばいくつかのクラスでは200メートルをなくしたり投てき種目も1つに絞る。表彰式がなくなるのは選手としては寂しいかもしれないが、走り幅跳びの緊張を途切れさせることがない。

 一方で参加する選手を中心に考えるなら、私がいうアイデアはまったく見当違いだろうと思う。種目数は多い方がいいし、表彰は試合中に行った方が選手にとってはうれしいはずだ。

 急速にレベルが上がり、観るスポーツとしても注目されるパラリンピックの陸上競技。突きつけられた課題は、する側に立って考えるのか、観る側に立って考えるのか、選択することだと私は感じている。する方優先か、観る方優先か。もしかすると、それはアマチュアとプロの線引きといえるのかもしれない。その選択によっては、2020年東京パラリンピックの風景はまったく違うものになることだろう。

 マルクス・レームが宙に浮いている姿を見ながら、私は未来を見ているような気分でわくわくした。だからこそ逃げずに、パラリンピックそもそものコンセプトをあらためて考えるべきだと感じた。(為末大)