元元大関魁傑で放駒親方となり、日本相撲協会前理事長だった西森輝門(にしもり・てるゆき)氏が急死した。18日午後に東京・西東京市でゴルフ練習中に倒れ、午後3時21分に都内の病院で心不全のため亡くなった。66歳だった。10年に急きょ理事長に就任し、八百長など不祥事の対応に奔走した。

 前放駒親方の西森輝門さんは、大相撲を揺るがす事態になった八百長問題を裁いた。10年8月に理事長に就任すると、11年2月に八百長問題が発覚。同3月の春場所を中止する決断を下し、4月には特別調査委員会からの提言を受け入れ、当時幕内だった徳瀬川や猛虎浪らに引退勧告をするなど、計25人の力士、親方を処分。問題解決に尽力した。

 大相撲の窮地に、身を削りながら解決に努めたのも、前放駒親方だった。野球賭博問題騒動の中で急きょ10年8月に理事長に就任。望んだわけでなく、推される形でトップに立った。そのわずか6カ月後にさらに角界を揺るがす事態が発生した。それが、あの八百長問題だった。

 11年2月2日に発覚すると、理事長として即座に緊急理事会を開いた。「相撲界の根幹を揺るがす話だ」と強い危機感で、事実解明を第三者による特別調査委員会に委ねた。監督官庁からのプレッシャー、調査委からの厳しい指摘、そして身内からの反発…。板挟みになり、悩み、難局に向き合った。

 3月の春場所は中止にした。「疑惑が拭い去られるまでは、うみを完全に出し切るまでは、恐らく土俵上で相撲をお見せすることはできない」と、問題解決まで本場所を開催しない方針も示した。5月の夏場所は「技量審査場所」として実施し、国技館を無料開放した。財政面より、信頼回復を優先した。

 親方衆の猛反発を押し切る形で、幕内力士らに大量処分を断行した時には「大変残念なこと。自分たちの仲間ですよ。仲間の中から、これだけの人数を処分しなきゃいけない。否認している力士が大半。しかしながら、この問題は協会の姿勢を問われているとして、処分を考えないと。その結果こうなった」と話した。

 同じ一門で、一緒に執行部入りした元二所ノ関親方(元関脇金剛)は「石橋をたたいても渡らない人」と、かたくなで強い意志を持つ人間性を評したことがある。だからこそ、苦渋の決断とともに強いリーダーシップを発揮し、失地回復に努めることもできた。<八百長問題>

 ▼11年2月2日

 野球賭博事件で押収された力士らの携帯電話に、八百長行為をうかがわせるメールが残っていたことが発覚。日本相撲協会は名前の挙がった力士、親方から事情聴取し、特別調査委員会を設置。

 ▼6日

 理事会で3月春場所の中止と年内の地方巡業取りやめを決定。

 ▼8日

 十両以上の全関取への事情聴取を開始。

 ▼14日

 理事会で情報提供を求めるホットライン開設と再発防止委員会の設置を決定。

 ▼3月9日

 再発防止委が名称を大相撲新生委員会とし、初会合で6項目の再発防止案。

 ▼23日

 特別調査委が複数回聴取した約30人のうち20人程度の関与を認定。

 ▼25日

 特別調査委が関与者の処分案で大筋合意。

 ▼28日

 特別調査委による師匠への事情聴取で、谷川親方(元小結海鵬)、幕内猛虎浪らの八百長関与認定が判明。2月2日に発覚したメールでやりとりをしていた4人以外では初。

 ▼31日

 北の湖、九重、陸奥の3親方が理事辞任。

 ▼4月1日

 現役力士19人ら23人に事実上の角界追放となる厳罰処分を下す。

 ▼5日

 23人のうち22人が引退(退職)届を提出。退職勧告の処分を受けた谷川親方は、退職届を提出せず、解雇に。当時の高木文部科学相は、大量処分について「協会として八百長根絶の姿勢を示したものと受け止めている」と評価。

 ▼11日

 特別調査委からの報告を受けた臨時理事会は、さらに幕内蒼国来(後に訴訟を起こして勝訴し復帰)と十両星風の2人が八百長に関与したとして、引退勧告の処分を下す。結局、計25人が処分された。