野球どころの神奈川では1951年の希望ケ丘を最後に、県立高校が甲子園に出場していない(※90年の横浜商は市立)。この間、実に66年。これは47都道府県での最長ブランクでもある。67年前、県立の星が繰り広げた戦いを振り返る。

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 100回を迎える甲子園の歴史の中で唯一、個人賞が贈られた年がある。1951年(昭26)、戦時中に武器製造のため供出された大鉄傘に代わり、甲子園球場にジュラルミン製の大銀傘が設置。これを記念し、大会第1号本塁打を打った選手に「ホームラン賞」が贈られた。受賞したのは希望ケ丘(神奈川)の内野雅史外野手(2年)だった。

 1回表1死二塁、カウントは0-2。3番打者の内野は、内角高めの真っすぐを思い切りたたいた。「2ストライク。もう振るしかなかった。コースはインハイ。私が一番打つコースに来て良かった」。白球はどよめきとともに左翼スタンドへ。先制2ランは、大会第1号本塁打となった。

 身長約165センチ。決して体格に恵まれていたわけではない内野だが、打撃には自信があった。「結構、打ったんです。体の割には、中学のころからロングヒッターだった」。ただ、肝心の一打の感触は覚えていない。「(緊張して)コチコチになっていたからね。どこへボールが飛んだか分からなかった」。打った瞬間、頭の中は真っ白だった。

 スタンドがどよめいたのには、理由があった。対戦した平安(京都)は優勝候補筆頭。エース清水宏員は京津地区の予選全試合を完封勝ちし、大会屈指の好投手と評価されていた。「実際に優勝もしたし、予想からも大本命だった。清水は予選から1点もやっていなかったから、私が初めて2ランを打って動揺していた」。先制したが、自軍のエラーもあり、試合は2-5で敗れた。平安は前評判通りに優勝し、清水は後にプロ野球の毎日に入団する。

 当時は木製バットの時代だった。今のように本塁打が量産されることはなく、この大会も6本のみ。うち2本は“怪童”中西太(高松一)が記録したが、「中西は2本ともランニングホームランだったんだ」と、内野は少し誇らしげに振り返る。球史に残るスラッガーではなく、「自分は2年生。(甲子園は)人に付いていった感じ」という無名の選手が、唯一無二のホームラン賞を受賞した。それもまた、甲子園だ。

 内野は卒業後、立大に進学し、社会人でもプレーを続けた。4月で84歳となったが、今でも神奈川県の野球に携わっている。「バットにしてもスタイルにしても、昔はさまざま。プロに“右へ倣え”になっている今のバッティングスタイルは、高校生向きではないのかもしれない。もう少し個性があっていいんじゃないかな」。情熱は衰えず、野球談議は止まらない。

 直径33センチ、厚さ3センチ、重さ2キロ。中心部にベーブ・ルースがデザインされた円形の盾は、試合後に審判から本塁上で渡された。「重たいんですよ、これが」。盾は今でも自宅の壁に飾られ、野球の神様が内野を見守っている。

 あの本塁打から67年。私立の厚い壁に阻まれ、神奈川では県立が甲子園には出場していない。希望ケ丘も例外ではなく、62年を最後にベスト8からも遠ざかる。「とにかく勝ってほしいね。何でもいいから勝ってほしい」。1試合でも多く…。暑い夏に挑む後輩へ、内野はエールを送る。(敬称略=おわり)【鈴木良一】

ホームラン賞の盾を手にする内野雅史氏
ホームラン賞の盾を手にする内野雅史氏