コロナ禍による自粛生活で自宅にいることが増えた。というか、ずっと自宅にいる。一応、仕事をしたり、掃除をしてみたり、片付けものをしたり。そんな中で部屋の片隅にいる「ネッピーくん」のほこりも払ってみた。

オリックス時代のイチロー氏にもらったものだ。当時、本塁打を打つと選手はこのネッピーくんをもらえた。その頃、神戸の試合ではイチロー氏はゲームが終わった後、スパイクを磨きながら記者の取材を受けるのが習慣だった。

イチロー氏はしゃがんでいるので我々も同じ格好になる。今から考えれば不思議な光景だった。

あれは96年ごろだったろうか。本塁打を放ったイチロー氏に話を聞きながら横を見るとネッピーくんがぽんと置いてある。

「このネッピーくんもいっぱい、たまったんとちゃう。もらおか?」。

冗談でそう言うと「どうぞ」と手渡してくる。一瞬、焦ったが、記念でもあるし、せっかくなので「ありがとう」といただいた。あれから、約25年の間、わが家においてある。

ご承知のようにネッピーはブルーウェーブ時代のオリックスのマスコットだ。そして着ぐるみに入っていた、スーツアクターというようだが、その人物の異例さでも知られる。

島野修さん。ちょうど10年前の2010年5月8日に59歳の若さでなくなった。当時、島野さんとあいさつ程度の話はしたが本当に物静かな方だったという印象がある。

島野さんは1968年のドラフト1位で横浜・武相高から巨人に入団している。この年のドラフトは話題だった。

通算22本塁打の東京6大学記録を樹立した田淵幸一氏を含む山本浩二氏、富田勝氏の「法政3羽がらす」が目玉だった。関西には近大の有藤通世がいた。

そして明大のエース星野仙一氏は巨人入りを熱望していた。同じく田淵氏も巨人志望だった。

そして高校ナンバーワンの評価を受け、巨人に入団した本格派の島野氏だったが肩の故障などもあり、5年間で1勝に止まった。76年に阪急ブレーブスに移籍したが復活とはならず、78年に現役引退している。

そこからのスーツアクター人生。阪急時代のブレービー、オリックスになってからネッピーとして活動した。

ドラフト1位がスーツアクターになる心境をしっかりと聞く機会はなかった。それでも島野氏が新しい仕事をやり抜いたことは間違いない。

島野氏の死去から10年。野球がやれない状況のいま、夢を見た選手とは違う形でも、プロ野球に貢献した人生を思っている。