球界の功労者をたたえる野球殿堂入りが14日、都内の野球殿堂博物館で発表され、エキスパート部門で阪神、西武などで活躍した田淵幸一氏(73=野球評論家)が選出された。

現役時代は王貞治の14年連続本塁打王を阻止するなど歴代11位の474本塁打。引退後はダイエー(現ソフトバンク)で監督、阪神と楽天では親友星野仙一監督のもとコーチを務めた。亡き親友のレリーフに「俺ももらったよ」と晴れやかに報告した。

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田淵さんは「野球人として最後にいただけた賞。感謝感激です」と喜びをかみしめた。エキスパート表彰候補9回目で殿堂入り。「最大の恩師」に法政一高、法大時代の監督、松永怜一氏(88)の名前を挙げた。

「高校は外野手で入ったけど、汚くてくさい道具をつけるから、誰もやりたがらない打撃捕手をやれば、硬球に触れると思った。そのうち松永さんがミットの使い方がうまいと言ってくれて捕手になった」

法大同級生で3羽ガラスと称された山本浩二、富田勝らを育てた名監督の教えが野球人の原点になった。

巨人志望だったが、1968年(昭43)ドラフト1位で阪神入団。藤村富美男、村山実に続いて、「ミスタータイガース」を受け継いだ。だが70年8月26日の広島戦(甲子園)で左こめかみに死球を受け、生死をさまよった。絶望から再起し、474本塁打のアーチストとして花を咲かせた。

「巨人戦で本塁打を打つと、一塁の王さんは目を合わせないが、三塁で長嶋さんが『田淵くん、よく打ったねぇ』と声を掛けてくれた。あの2人と同じ舞台で野球ができたのは宝です」

75年は43本塁打を記録し、巨人王の連続本塁打王を「13」で阻止して初タイトルを獲得。西武移籍後の82、83年は管理野球の広岡監督のもと、主力でリーグ優勝と日本一に貢献した。

「紆余(うよ)曲折だった。死球で死にかけ、(71年)腎炎で入院し、完璧にやったシーズンは1度か2度。西武で日本一になり、胴上げ、ビールかけをしたのが脳裏に浮かびます」

90年から3年間務めたダイエー監督では結果を出せなかった。だが03年に阪神チーフ打撃コーチとして星野仙一監督を支え、古巣の18年ぶりのリーグ優勝に尽力して一旗揚げた。

親友の星野、山本浩二と監督、コーチとして臨んだ08年の北京五輪は惨敗。だが星野氏から「お前もいつか(殿堂に)入るから、3人で祝賀会をやろう」と言われたという。「いち早く山本浩二が『おめでとう』と言ってくれた。残念なのは星野。心の中で報告した。仙ちゃん、俺ももらったよと」。殿堂に飾られた故人のレリーフの隣で、穏やかに記念撮影に応じた。「プロ野球はファンがすべて。生きてるうちは経験を伝えていきたい」。さらなる球界への貢献を誓い心を新たにした。【寺尾博和】

○…田淵氏が古巣阪神にエールを送った。「もちろん阪神のことは気になるよ。今年は優勝しなくちゃいけない」。02~03年に指導した教え子矢野監督が指揮を執っているだけに、厳しいチェックも欠かさない。「大山が6番打つぐらいになると強いよね。新外国人次第だろうね」。笑顔で15年ぶり優勝を期待していた。