貴さんが、高校野球を語った。「野球の国から 高校野球編」は、今日30日から、野球界以外の著名人に高校野球の魅力を聞く「高校野球メモリー」です。大人気タレント、とんねるずの石橋貴明(53)は、強豪帝京(東京)野球部OBで、高校時代は投手でした。甲子園へのあこがれや、ほろ苦い思い出、球児たちへのメッセージなど、熱い高校野球談議が続出。秘蔵トーク連発です。(敬称略)【取材・構成=前田祐輔】

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石橋は、楽屋のテーブルに置かれた帝京の歴代の写真から、1枚を手に取った。89年夏の甲子園で初優勝した時のエース、吉岡雄二投手(43=元楽天)の写真だ。

「夏は2回優勝してるんですけど、2回とも甲子園で決勝を見てます。吉岡の時は、ほぼほぼ当時、タレント生活の中でも絶頂期にいたので、アルプススタンドに座ったら、とにかく収拾つかなくなっちゃって」

すぐに日本高野連が、バックネット裏の席を用意してくれて、移動した。

「そこだと、(前田)監督の声が聞こえるんです。オレもその声に、まだ27歳ぐらいだったから、熱くなって。『吉岡頑張れ ! 』って。そしたら偉い高野連のおじいちゃま2人に、『石橋君、どっちかが勝って、どっちかが負けるんだから静かに見てね』って言われちゃって(笑い)」

延長10回2―0で仙台育英(宮城)を破り、手にした初の優勝旗。

「これが深紅の大優勝旗かって。さすがに、わが母校が、あの旗をもらった時は、じーんときましたね。あー、ついに夏を勝つ学校になったかって」

番組では「帝京魂」と絶叫するなど、母校や高校野球への愛情は深い。甲子園で一番好きなシーンは、意外にも閉会式だという。

「最後まで負けない3年生と、最後の最後で負けちゃう3年生がいる。年を取ってきたせいか、グッとくるものがありますね。旗持って、『栄冠は君に輝く』を聞いて、こう回ってくると、きますよね。あー今年も終わってしまったなって」

甲子園にあこがれ、必死に目指した高校時代の思いとも重なる。

「まあ、でも本当に、あそこでやれる人たちは幸せですよね。大抵がやれないわけで。出られなくても、頑張ったという3年間があれば、人生において、すごくつらい時とか、落ち込んだ時に、でも、1年の夏の練習の方がつらかったなって、思えることがあるから」

石橋が、帝京野球部に入部したのは77年だった。

「環境としては劣悪で、グラウンドはサッカー部と半分。通いで寮もなかった。僕らの誇りっていうのは、あの環境でも、全国レベルにいたっていうこと。寮と専用グラウンドがあるところには絶対に負けないっていう思いはありましたね」

石橋が2年春に、帝京は春夏通じて初の甲子園となるセンバツに出場した。

「まだ人数的にも30人ぐらいだったので、全員連れて行ってくれたんですよ。甲子園練習あるじゃないですか。僕ら補欠はランナー役とかやるじゃないですか。三塁に行ったときに、『ここが掛布が守ってるところだ』って。当時すごい人気でしたから。駐車場に掛布さんのポルシェが止まっていて、僕掛布さん見ました、『おー掛布だ』って」

石橋が、甲子園のグラウンドに立ったのは、後にも先にもこの時だけ。テレビ収録などでは簡単に使えない聖地。甲子園の土は…。

「それはきっちり持って帰りました。ちょっと先輩の目を盗んで、スパイク袋に入れて。その日雨だったんで、家に帰って、乾かすために、ブルーシートにきれいに並べていたんです。そしたらうちのおふくろが『何だこの土って』、パーって。オレの大事な甲子園の土は、おふくろがまいてしまって、うちのアパートの裏に。痛恨です」

2年秋には「こういう性格だったので、元気だけで」と、三塁コーチャーとして、初めてベンチに入った。そして迎えた最終学年。

「3年の春にやたらと調子が良くて、おっ、これは、オレあるぞと。ブルペンで投げていいピッチャーがもらえる、ピッチングボールをもらって。これはオレ、春の東京都大会(背番号)1番あるなと。そしたら、その時、新聞にでっかく、帝京野球部アウトって。辞めたやつが何かチクリやがって。一気に春の都大会辞退ってことになっちゃって」

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チャンスをつかみかけた春から夏にかけた、数カ月の間に〝事件〟は起きた。

「雨の日で、『走っておけー』っていう時に、みんなでサッカーやってたら、オレだけ見つかっちゃって(笑い)。監督が入ってきたのを、1人だけ知らない方向を向いていて。みんな蹴らないから、『おい、早く蹴れよ』って言って、パッと振り返ったら、監督がいて『お前何やってるんだ』って。そしたら次の日から、ピッチングボールも取り上げられてしまった。それから、外野を走ることも、ピッチング練習することもなく、いっつも階段横のベンチに、ずーっと練習中座ってて。だりーなーって」

もうチャンスはもらえなかった。「帝京の秘密兵器 ! 秘密のままで終わっちゃいました」と笑う。最後の夏は、スタンドでの応援だった。

「3年生7人だけベンチに入れず、『ワイルドセブン』って言われて。俺たち13人しか残らなかったんですよ、50人入って。結局6人だけベンチに入って、7人ベンチ外。もう、ふてくされているわけですよ、3年夏なんて。もう早く明日海行こうよ、みたいな」

そして、東東京大会4回戦で、攻玉社に0―4で敗れた。

「3年のやつがスクイズを失敗して『お前のせいだ、バカ ! 』なんて言って。で、当時、神宮のスコアボードって、点が入る時に、0から1、2、3…みたいに、ロールで回るみたいなやつで。ゲームセットになって、俺ら第4試合だったから、今日は神宮終わりってなって、それが9回までのが全部、数字じゃなくて、ふたみたいに、どんどん閉じられちゃった瞬間に、ずっと何日間かふてくされていた俺らが、全員急に悲しくなって。急に涙がボロボロ出てきちゃって」

夕暮れの神宮で、高校野球は終わった。

「あーオレ何やってたんだろうって。3年間何やってたんだろうって思って。最後グラウンドにいたかったなーと思って。もう号泣。3年生みんなで球場出てきて、お疲れって、言ったときに、13人号泣で。あー、もう少し真面目にやれば良かったなと、後悔先に立たず、というのは、まさにこのこと。でも最後までやった13人は、今でも友達でいられるんですよ。全然まとまりのない13人で、卒業してから、もう35年以上たっているのに、集まったのは1回だけ(笑い)。俺らが50歳になった時に、1回やろうって。集まりの悪い、やっぱりダメな代なんだなって(笑い)」

結局レギュラーにはなれなかった。つらく苦しい高校時代だったが、あの3年間があったからこそ、今があると思える。「間違いなく体が健康になったということと、理不尽なことにも耐える、精神力というものはつきましたよね」。そう笑って言って、付け加えた。

「甲子園に出られなかった人も、流した汗と涙は、将来に絶対つながるから。そこで一緒に汗を流した友達は、ずっと友達でいられるから。野球はやっぱり、いいスポーツですよ」

30年以上厳しい芸能界のど真ん中を走り続けた貴さんから、最後の夏に懸ける球児たちへのエールだ。

◆石橋貴明(いしばし・たかあき)1961年(昭36)10月22日、東京都生まれ。帝京卒業後、サッカー部出身の同級生、木梨憲武と「とんねるず」を結成して、80年に芸能界デビュー。「ねるとん紅鯨団」など数々のヒット番組で爆発的な人気を博し、現在は「とんねるずのみなさんのおかげでした」などに出演。ハリウッド映画「メジャーリーグ2」「メジャーリーグ3」にも出演した。夫人は女優の鈴木保奈美。