変わりゆく古巣日本ハムを、日刊スポーツ評論家の田村藤夫氏(62)が胸に浮かぶものをそのまま文章ににしたためた。新庄BIGBOSSの来シーズンへ、思いをはせた。(全文2250文字)

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もはや私の知る日本ハムではなくなった。メディア露出が突出している。こんなこと、東京ドームをホームにしていた日本ハムでは考えられない。そもそも、ホームが東京ドームだったことすら、はるか昔のことだ。

私は日本ハムで高田繁さん、近藤貞雄さん、土橋正幸さん、再び大沢啓二さん、上田利治さんに選手として仕えた。コーチとしては大島康徳さん、ヒルマンの元で働いた。

私のいた日本ハムは、セ・リーグに対して圧倒的に存在感の薄いパ・リーグの中でも、さらに地味な存在だった。当時の選手としての偽らざる本音だ。

東京ドームでは巨人のロッカールームは使えず、ずっと小さく、施設もはるかに質素なロッカーを使った。薄暮の夕方に試合をして、スタンドのファンは巨人戦に比べれば何分の1の少なさ。メディアの露出は皆無だった。

同じプロ野球チームでありながら、華やかさに無縁で、武骨に野球に打ち込むしかなかったあの日本ハムファイターズが懐かしい。それでも新庄監督のチームにも、その底流には練習でしか這い上がれないプロの原則は息づくはずだ。

日本ハムはさらに変わっていくだろう。どう変わるか予想し、何かを言い当てる気は私にはない。選手新庄と接したわずかばかりの時間をもとに、心に浮かぶものを文字にした。

移動のバスに乗り込む時、後部座席に座る新庄は、前方にいるコーチ陣の横を通る。「お疲れさまでした」とあいさつする。すぐにいい香りが漂ってくる。新庄の香水がかおってくる。野球選手には似つかわしくない空間が、その時だけ移動バスに広がる。まあ、こうして文字にすれば当たり前なのだが、いつも私は「いい香りだな」と、そのたびに思っていた。

そして、香水と連動して思い出されるのが、札幌ドームの駐車場に停まっていた新庄の赤いフェラーリだった。

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なぜ、新庄の車があるのだろうと、気にはなっていたが、それを深く確認することはなかった。ロッカーでは、新庄がリラックスしていた。何も感じさせない、自然な振る舞いで試合前の時間を過ごしていた。

しばらくしてからだった。新庄が午前中からスタッフ1人と室内練習場で打撃マシンを納得するまで打ち込んでいたことを知ったのは。

私は「そうだろうな」と、反射的に感じた。なぜなら「練習していなければあれだけの数字は残せない」と、同じプロの世界を生きたものとして、どこかで思っていた。

グラウンドではファンの目を楽しませることに時間を割き、楽しそうに振る舞っていた。そこばかりが注目を集めていたが、そこだけを見ていては本当の新庄の姿は見えてこないだろう。ぼんやりとそんな風に新庄をながめていた。

早めに球場に来て、誰にも知られることなく、とことんバットを振っていたとして、それがかっこいいとか、美徳だとか、プロのあるべき姿だとか、そんな感情は湧いてこなかった。シンプルに、練習をして結果を求めた新庄を、ありのままに見た、ということだった。今も、新庄と言えば、あの香水の香りがよみがえる。そして、すぐに野球小僧新庄が連動して浮かび上がってくる。

優勝は目指さない。はっきりと口に出せる新庄監督は無敵に映る。そして、弱ければやがてファンは離れていく。そのシンプルな仕組みも新庄監督は深く理解している。「優勝は目指さない」ゆえの「誰よりも練習しよう」。この思考、つながり、因果関係が選手に見えているか、いないか。そこが新庄日本ハムが優勝を目指せるチームに育つか、期待はずれで終わるかの分岐点になるように思う。

新庄監督の思惑は既に外れようとしている、私にはそう見える。実はひたむきだ。そういう野球観をなるべく見せないように、華やかな雰囲気で包みこんでいる。しかし、新庄監督が想像している以上に、周囲は彼の本質を見極めようと真剣に見て、学ぼうとしている。

スーパースター新庄と、練習の鬼新庄。この振れ幅の間で、新庄監督はやりたい野球を体現しようと模索している。この構図を、ファンはひとつの劇場のように俯瞰(ふかん)しながら楽しむ。こうして、解説してしまうことも無粋なのだが、プロ野球とはそういうものではないか。

野村IDヤクルト、常勝森西武、ミラクル長嶋巨人、オリックス仰木マジック。いずれも表面を漂う空気と、チーム内の底流にあるリアルな姿はまるで違うものだ。私はそのいずれの監督にも仕えていないので、これは想像でしかない。

野村さんは、ID野球としてデータを重視し、「精神論」に頼る野球を批判していたが、本当はいざとなれば「なにくそ」という根性と直結するメンタルを大事にしていた。球団のスローガンとして「くそったれ野球!」を標榜し、当時のセ・リーグ連盟から品がないということで却下され、やむなく「我武者羅野球」に変更したことがある。

私には新庄監督が目指すものが何となく分かる気がする。必死に、あきらめずに、謙虚に。それは決して恥ずかしいことではない。あのスマートでかっこいい新庄監督が、泥まみれになるからこそ、さらに絵になる。1点を必死に取りに行く、しがみついてでも先の塁を目指す。まさに野村さんが標榜した「くそったれ野球!」を、新庄BIGBOSSが見せてくれるかもしれない。日本ハムOBとして、見届けたい。(日刊スポーツ評論家)