東映(現日本ハム)で投手として活躍し、ヤクルトや日本ハムで監督を務めた土橋正幸(どばし・まさゆき)氏が、24日午後10時56分、筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリッグ病)のため東京都内の病院で死去した。77歳だった。軟式チームでプレーした同氏は55年、入団テストを経て東映入り。58年に日本記録の9連続三振、61年には30勝を挙げ、62年には日本シリーズでMVPを獲得。引退後も指導者として人材を輩出するなど、球界に数々の功績を残した。

 「草野球」出身の大投手は10万人に1人の難病と闘っていた。妻泰枝さん(72)によると、土橋氏は亡くなる2日前まで自宅のテレビで野球観戦を欠かさず、「マー君はすごいな~」と楽天田中の連勝に目を細めていた。容体が急変したのは24日午後5時ごろ。呼吸困難となって救急車で搬送され、泰枝さんや娘、孫らにみとられて亡くなった。

 筋萎縮性側索硬化症は発症から余命3~5年とされ、急激に筋力が低下する。泰枝さんは「つまずいて転ぶ回数が増えて、右手が思うように動かず、子供に頼まれたサインができない」と昨年6月ごろに異変に気付き、同10月の検査で告知された。義理の息子で医師の小川崇之氏(47)のサポートを受けながら、闘病生活に入った。

 土橋氏は昨年10月下旬、座長(委員長)を務める沢村栄治賞の選考委員会に出席。「全体的には低いレベルの戦い。来年はセ、パともに抜群の成績を挙げるような投手が出てきてほしい」とハイレベルな争いを期待する言葉を残した。年末にはBSフジのプロ野球の特番に出演し、収録に付き添った小川氏によると「これが野球界と関わる最後の仕事だな」と寂しそうだったという。年明けから自宅療養を続けて、この3カ月ほどは自宅内の移動も車いすだった。症状の進行が早く、小川氏は「闘病期間としては短かったかもしれません」と話した。泰枝さんは「あれだけ強かった手の力が抜けていき、この3カ月は週に1度のお風呂で起き上がるだけでした」と明かした。

 球歴は異例のプロ選手だった。日本橋高卒業後、家業の鮮魚店を手伝いながら、地元の軟式チームなどでプレー。浅草のストリップ劇場「フランス座」のチームに助っ人として参加し、東京都大会で優勝した。54年秋に東映の入団テストを受験し、遠投で120メートルの肩を買われてプロ入りした。58年に21勝、61年には年間393回を投げて30勝。62年には阪神との日本シリーズで2勝を挙げ、捕手の種茂とともに史上唯一の同時MVPに輝いた。

 コーチや2軍監督などを経て日拓(現日本ハム)、ヤクルト、日本ハムの監督を歴任。ヤクルト監督時代には荒木大輔(ヤクルトコーチ)広沢克実(野球評論家)ら若手を積極的に起用。日本ハム監督時代にも、新人の片岡篤史(野球評論家)を我慢強く使い、強打者の土台をつくった。厳しい指導で若手を育て、親分肌で後輩に慕われた。

 現役時代は暴れん坊の異名を取った。スリークオーターから打者の手元で微妙に変化する、今で言う「カットボール」も投げ、速いテンポで投げるスタイルから「江戸っ子エース」とも呼ばれた。酒とたばこをこよなく愛し、家族の手を借りながら、亡くなる2日前までたばこで一服するのを楽しみにしていたという。泰枝さんは「ひつぎに納めてあげたい」。祭壇には愛用したたばこの銘柄の箱が置かれていた。

 ◆土橋正幸(どばし・まさゆき)1935年(昭10)12月5日、東京都生まれ。日本橋高を卒業後、家業の鮮魚店で働きながら草野球で活躍。54年にフランス座のチームに助っ人で参加し、軟式の大会で優勝。入団テストに合格して東映(現日本ハム)入り。58年5月31日西鉄戦で9者連続三振のプロ野球タイ記録、1試合16奪三振のプロ野球記録(当時)を樹立。61年の30勝、防御率1・90はともにリーグ2位。62年は17勝でリーグ優勝、チーム初の日本一に貢献し、日本シリーズMVP。67年引退。東映コーチを経て、73年後期に日拓監督。84年に武上監督、中西監督代行の後を受け投手コーチからヤクルト監督に就任。評論家を経て92年日本ハム監督。01年マスターズリーグ東京監督就任。沢村賞選考委員長も務めた。現役時代は178センチ、78キロ。右投げ右打ち。