歌手野口五郎(70)が、デビュー56年目に突入した。1971年5月1日にデビューし、古希を迎えて歌手として、ミュージシャンとして新たな挑戦を続けている。8月14日には東京・赤坂のサントリーホールで「野口五郎 GORO NOGUCHI CONCERT 2026 A new chapter~新たな章へ~」を開き、NHK交響楽団、そして長女のピアニスト文音(23)と共演する。歩んできた軌跡、そしてこれからについて聞いた。【小谷野俊哉】
★71年に演歌歌手
1971年(昭46)5月1日に「博多みれん」で演歌歌手デビュー。3カ月後の8月1日に「青いリンゴ」でアイドルに転じて大ブレーク。歌手生活56年目の“ごろう”の節目の年にイベントを精力的にこなしている。
「サントリーホールではN響の方々とご一緒します。N響のメンバーと、そして娘の文音も一緒にステージに立ちます。音楽の話を普通にできるのが、本当に楽しいですね。ずっとクラシックの話しかできなかったんですけど、今はどんな話もできるようになりました。僕が思うことを伝えると興味深く聞いてくれる。クラシックでピアノをやって、アレンジをできるんだからいいですよね」
手塩にかけて育て、東京音大を卒業してピアニスト、アレンジャーとして活動するまな娘と共演。音楽家としても尊敬されている。
「本当に恥ずかしいですけど、もし娘がそういう風に思ってくれているなら、こんなにうれしいことはない。3歳ぐらいでフォークがグラスに触った時にキーンって音がした時に『これ何の音』って聞いたら『シのちょっと低い音』って。DNA、遺伝かなと。おなかにいる時から、ずっと音叉(おんさ)で『ラ』を聞かせていました。おなかの中のDNAに向かってね。ちょっとした実験でしたね」
芸能界には2世が多い。野口から音楽的才能、母のタレント三井ゆり(57)から美しさを継いだ文音なら、芸能界デビューへのハードルは低かったはずだ。
「僕の娘に対する思いというのは、事業で成功してほしいとか、素晴らしい音楽家になってほしいとかいうことではなく、音楽を通して豊かになってほしいというものなんです。音楽が好きで、音楽って本当にいいよね、そういう風に思える人になっている」
15歳でデビューして70歳、古希を迎えた。
「時の流れの速さは、僕には関係ない。何が変わったかというと、いろいろな経験をしたんでしょうけど実感はないんです。外見も変わってるんだろうとは思うけど、そんなに大きく変わったとは思っていない。やっぱりDNAにすごく感謝しています。人形浄瑠璃をやってたひいおじいちゃんだったり、両親ともに歌手になりたかったので、そういうDNAで歌わせてもらっている。最終的にはそういうDNAってやっぱり先に行くんだろうねって、娘には話しています」
71年、15歳の時に「博多みれん」で歌手デビュー。3カ月後には「青いリンゴ」でアイドルに転じてブレークした。
「とにかくその頃は“席があったら座る”っていう時代。とにかく椅子を求めて、演歌でも、なんでも、デビューできるだけで夢を果たしたことになる。とにかくこれで、僕は田舎に帰れると思いました」
売れなかった。3カ月後には「青いリンゴ」でアイドルに転じてブレークした。
「後に芸能事務所の研音の社長になった児玉英毅さんが、作曲家の筒美京平先生に相談して連れて行ってくれた。じゃあ、好きなポップスをやるかって話になって。本当に感謝しています。もちろん演歌の先生にも感謝してますけどね」
★イップスの期間
翌72年にはNHK「紅白歌合戦」に当時の最年少16歳10カ月で初出場。西城秀樹、郷ひろみとともに「新御三家」と呼ばれるトップアイドルになった。
「まだスターの時代。アイドルって言葉は、まだ生まれてなかった。知り合いのマネジャーから紹介されたのが、デビュー前の秀樹だった。ドラムをやっていました。当時のジャニーズ事務所に行って音楽の話をするのが楽しかった。そこから、ご飯を食べに行って紹介されたのがひろみだった。かわいかったですね。気がついたら新御三家。もう2人がデビューすることがうれしくて。僕は15歳、高校1年の年に先にデビューしたけど、同い年の仲間ですからね」
今では当たり前のことだが、トップアイドルでありながら日本テレビのバラエティー「カックラキン大放送!!」に75年から8年間、レギュラー出演。コントを披露した。
「僕は最初は(クレージーキャッツの)ハナ肇さんなんです。メンバーの谷啓さんとも仲良くさせてもらってね。16歳の時にハナさんに『16ビートと32ビートと、どっちがいいですか』って聞いたことがあってね。『面白いこと言うね』ってエンターテインメントの話をきかせてもらったんです。鹿児島だったんですけど、仕事で行った時にそこでエンターテイナーの話を聞を。けんかしていたら、止めるだけじゃなくて笑顔にしなきゃって。エンターテインメントって、音楽が分かってなきゃできないんだよ。間が大事だからねと。失笑もダメ、笑われちゃダメ、笑わすんだからと。8年間やりました」
古希、70歳になった。
「あとどこまで歌がいけるか。僭越(せんえつ)ですが、まだ伸び代があると思えています。今が最高潮だって、過去を振り返らないので、これから先に素晴らしいものがあると思う。さらに高みを目指せる感触があります。それは本当にDNAに感謝しています」
自然と声が出ない時が35年間もあった。
「25歳から60歳まで、イップスの期間が35年間、あったわけです。ちょうど還暦を迎えた頃に、自分自身が俯瞰(ふかん)で見えてきた。その時、声帯にあった邪魔な突起物が、ちょっとずれたんですよ。それで声が出るようになった。神がかった、イメージの世界なんですけどね。本当につらかったですよ。最初の一声がつらそうなのは、そういう歌い方なんだと思われていたけど、実は声が出てこなかったんです」
87年、31歳の時には過呼吸になった。
「舞台『レ・ミゼラブル』の初演でなったんですよ。ミュージカルやるのにプレッシャーがあったのかな。救急車を呼んだけど、当時は過呼吸ってあまり認知されてなくて、前に行ったことのある病院に行ってもらいました。専門じゃないところに運ばれて声帯を切開されていたら、何があったか分からない。結局、足かけ5年で治りました」
2018年(平30)、62歳の時には、早期の食道がんが見つかり、内視鏡で切除手術。1週間ほどで復帰した。
「55年も歌ってきて、35年間イップスだったり、5年間過呼吸だったりってね。それはうまいこと同居するしかないんです。みんな、無理やり直そうって考えちゃいますけどね」
音楽アプリの開発も続けている。ライブ会場でQRコードが印字されたカードを購入すると、終演後にライブ映像が送られて来る「テイクアウトライブ」。次々と研究開発を進めて、取得した特許は15以上にもなる。
「ファンの人にコンサートを持ち帰ってもらいたいという思いが最初。デジタルになって音がクリアになった。だけど絶対に何か落とし穴があるなと。そういうところから音を探して研究をしていった。アプリも、ファンやアーティストの役に立てたらなと。やっぱり自分の興味とか知りたがり屋っていうのとか、その先を見たいという好奇心がすごい強いから。それが未来につながっていけば、それでいいのかなと思っています」
平たんな道だったわけじゃない。それを自分で切り開き、歌とともに歩いてきた。これからも、地に足のついた歩みを続けていく。
▼野口の長女のピアニスト文音
父の音楽に対する情熱には、いつも驚かされてばかりです。私がピアノの練習をしていると、時々アドバイスをくれます。それは、たった一言ですが「ここの休符をもっと歌ってみたら」や「左手で音楽をリードしてみては」など、長年、音楽を突き詰めてきた父だからこその、深く考えさせられる言葉です。父に「現状維持」という言葉はありません。音楽で「人を幸せにする」という夢を、今も本気で追い続けています。
「こんな父親でごめんな(笑い)」と私や弟に時々言うのですが、全くそんなことはありません。最近、私はプロとして父と同じステージに立つという、夢の1つをかなえることができました。父の背中を追い続けた先に、私だけの新たな道が開けると信じて頑張ります。お父さん、私もお父さんの一番の味方です。いつもありがとう!
◆野口五郎(のぐち・ごろう)
1956年(昭31)2月23日、岐阜県美濃市生まれ。67年フジテレビ系「ちびっこのど自慢」で優勝。71年5月1日に「博多みれん」で演歌歌手デビュー。同年8月発売「青いリンゴ」からアイドル歌手に。72年、当時の最年少16歳でNHK「紅白歌合戦」に「めぐり逢う青春」で初出場。「オレンジの雨」「君が美しすぎて」「甘い生活」「私鉄沿線」などがヒット。75~83年日本テレビ「カックラキン大放送」。83年に出演したTBS「誰かが私を愛している」の主題歌「19:00の街」がヒット。87~91年(平3)ミュージカル「レ・ミゼラブル」。99年(平11)TBS「ケイゾク」。2001年(平13)2月にタレント三井ゆり(57)と結婚。血液型A。









