7月12日に、タレントの大橋巨泉さんが82歳で亡くなった。がんの手術を繰り返してきたが、最後は体力がなくなった。少年時代に経験した終戦で「大人はうそをつく。国家も平気でうそをつく」と価値観ががらりと変わった。権力には対抗し、自由と平和を愛した。あのメガネの奥で目を細めた「巨泉スマイル」が懐かしい。【構成=南沢哲也】

●ロスから国際回線を使って出馬会見

 You can’t have everything.

 巨泉さんから、その言葉を聞いたのは、2001年の参院選で当選した後のことだ。

 「『人はすべてを手に入れることはできないんだよ』。そう思えば、うまくいかないことがあっても、気が楽になるだろう」。そう言って笑っていた。

 はたから見れば、ほとんど欲しいものは手に入れたのではないか、と見えたのだが「大成功した人でも、そういうことがあるものか」と思ったものだ。

 取材を始めたのは、参院選に出馬した時からだから、テレビで活躍していた全盛時代のころを取材していたわけではない。当時は「もうリタイアした」と言って、日本の寒い冬は、温暖な南半球のニュージーランドやオーストラリアで過ごし、日本のジメジメした梅雨の時期には、快適なカナダのバンクーバーで暮らし、お土産物の会社を経営しながら、ゴルフを愛して、悠々自適な生活をしていた。太陽を追い掛けて動いていくから“ひまわり生活”と話していた。こんな生活ができるのだから、テレビで活躍していた全盛の時は、どれほど稼いでいたのだろう。

 選挙に出馬するかしないか、ということで追い掛けて取材を重ねていた。巨泉さんは「会社(お土産ショップ)の経営もしなければいけない。北半球、南半球合わせて、200人近い従業員の生活がある。簡単なことじゃない」と決めかねていた。

 そのうちに当時の民主党の菅直人幹事長が、ロサンゼルスへ行くと聞いた。理由はわからない。巨泉さんは、バンクーバーにいる。

「もしや」と思って、国際電話をかけた。「菅さんが、ロサンゼルスに行くと聞きました。2人で会うのですか」。

 巨泉さんは、正直な人だ。「よく、わかったね」。

 巨泉さんは菅さんと一緒に、ロサンゼルスから国際回線を使って出馬会見をした。

 結局、菅さんに押し切られ、日本の政治が危ない、と言って出馬する。比例代表で民主党ではトップの50万票あまりを獲得した。しかし、そのときの自民党の小泉旋風はすさまじく、あの舛添要一さんや「ファイヤー」と叫んでいるだけのプロレスラーの大仁田厚さんにも得票数で負けた。

●「巨泉も地に落ちたものだ」とため息

 それでも民主党候補を何人か国会に送り込むことには貢献したと思うのだが、巨泉さんは「巨泉も地に落ちたものだ」とため息をついた。その後に「でも、You can’t have everything.うまくいかないこともある」と言って笑ったのだった。

 わずか半年で、民主党にも日本の政治にも失望して国会議員を辞めるのだが、その間に1度だけ参院の予算委員会で小泉首相に質問をした。「米国に言われて、日本は自衛隊を海外に派遣するのか」とかみついた。22分の持ち時間は、あっという間。「司会は巨泉」の真骨頂で、面白かった。質問を終えて国会を出てきたとき、目を細めたあの「巨泉スマイル」を見せて、こう言った。

 「さて、視聴率はどうだったかな」

 どんな時にも、ユーモアを忘れないシャレた人だった。

 ◆大橋巨泉(おおはし・きょせん、本名克巳=かつみ)1934年(昭9)3月22日、東京都生まれ。1960年代から90年までの間、日本テレビ系「11PM」やTBS系「クイズダービー」「世界まるごとHOWマッチ」など人気番組で司会を担当。90年3月に全レギュラー番組を降板してセミリタイア。01年参院選で民主党から出馬して当選するが党内で対立して6カ月で辞職。連載コラムなど著述業を中心に活動。家族は妻寿々子さんと、64年に離婚した先妻との間にジャズ歌手の長女大橋美加と次女豊田チカがいる。血液型B。