人気漫画が原作で、岡田将生、志尊淳、平手友梨奈の若手スター3人が競演する映画「さんかく窓の外側は夜」が22日、全国公開される。監督を務めたのは、人気CMディレクターの森ガキ侑大さん(37)。長編2作目にして、大作を任された森ガキさんは「映画監督」が、高校時代からの夢だったという。「夢を実現させる方法は2つ」と語る。その方法とは?【秋山惣一郎】

-「さんかく窓の外側は夜」が間もなく公開されます。気分はいかがですか

森ガキ がんばってヒットさせなきゃというプレッシャーが大きいですね。エヴァンゲリオンの新作や大ヒット中の「鬼滅の刃」もあって、興行的に成功するかどうか、ヒリヒリハラハラしてます。

-映画監督は、高校時代からの夢だったとか。きっかけは何ですか

森ガキ 当時、陸上競技に打ち込んでました。1600メートルリレーで、地元広島県1位になったこともあります。でも広島には、オリンピックに3大会連続で出た為末大さんのすごい記録がたくさん残っています。あのレベルでないとダメなんだな、と見切りをつけました。無心に取り組んだ陸上を失って、心にぽっかり穴があいたようで、近所のレンタルビデオ店で借りた映画の世界に浸っていました。「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」。映画は現実とは違う世界へ連れて行ってくれる。何て素晴らしいんだろうと、漠然と映画の仕事に就きたいと思うようになったんです。

-漠然とした思いから抱いた夢が実現するまでを教えてください

森ガキ 大学を出て、福岡の小さな広告会社に入って、26歳で上京しました。あてもないまま、勢いだけで兄のおんぼろアパートに転がり込んだ。ふとん1枚に2人で寝て、パックのご飯に納豆をまぜて食べる毎日。当時の年収は50万円。本当に苦しかった。親からは、30歳までに芽が出なかったら広島に帰ってこいと言われていました。

-すでに20代後半。残された時間はわずかでした

森ガキ 映像作品を研究して、作って、売り込みに行って追い返されて、睡眠は1日3時間。100回に1回のチャンスも逃さない覚悟で、とにかく動き回りました。約2年半。はっきりした記憶がないぐらい走り回っていましたが、それでもまだ足りない、と当時は思っていました。

-やがてCMディレクターとして名を上げ、17年に長編映画の監督デビュー。夢が実現したのは、何がポイントだと思いますか

森ガキ 夢をかなえるためには2つの方法しかない、と僕は思っています。1つは強運をつかむこと。街を歩いてたら、たまたまスカウトされて大スターになる、みたいな。でも、確率は極めて低いし、僕は、そんな運は持っていない。もうひとつが「逆算」の発想です。僕は、親に言われた30歳から逆算して行動した。逆算すると、今日1日、何をすべきかが見えてくる。ひたすら動き回っているうちに「君、おもしろいね」と拾ってくれる人が現れたんです。夢に向かって突っ走るだけじゃダメです。そりゃ、失敗もありましたよ。でも計算して行動しないと運は開かないし、夢にもたどり着けません。

-「夢に向かって一直線」という生き方もあります

森ガキ これも2つ考え方があると思います。どんなに貧乏でも、人生を楽しく、夢を追い続けて死んでいく。それも格好いい生き方だと思います。でも僕は貧乏に耐えられなかった。年収50万円の生活を続けながら年齢を重ねて、それでも映像を愛せるかなと考えたけど、僕には無理でした。

-耐乏生活の中、夢を追う原動力となったのは何ですか

森ガキ 「不安」ですね。夏休みの宿題は、図画工作まで最初の1週間ですべて終えるような子供でした。宿題という不安を残したまま、夏休みを過ごしたくない。ゲームで遊んでも楽しくない。だったら早く片付けようと。性分でしょうね。ミュージシャンの矢沢永吉さんが「不安だから、がんばる」といった趣旨のことを言ってました。僕もそうでしたね。今も常に不安ですよ。家族に対する責任もあるし、何より、もう2度と年収50万円の生活に戻りたくない。若い人に言いたいのは、不安のない人生は怖いよ、ということです。

◆森ガキ侑大(もりがき・ゆきひろ)1983年(昭58)、広島県生まれ。CMディレクター、映画監督。資生堂やソフトバンクなどのヒットCMを数多く手がける。長編映画デビュー作「おじいちゃん、死んじゃったって。」(17年)が、ヨコハマ映画祭森田芳光メモリアル新人監督賞を受賞。長編2作目となる「さんかく窓の外側は夜」が22日、全国公開される。