田中泯(76)が、ダンスを始めて56年。自らの踊りを撮った映像を初めて「格好良い」と思えた映画「名付けようのない踊り」(犬童一心監督)が28日から公開されている。踊る場と観客を感じながら踊る「場踊り」を軸に、幼少期の記憶から、裸体舞踊などに挑んだ生きざまを凝縮した作品だ。田中が自らが考える踊りや人間、人生を語った。【取材・村上幸将】

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田中泯(撮影・浅見桂子)
田中泯(撮影・浅見桂子)

「名付けようのない踊り」は、田中がポルトガルの公演に誘ったことをきっかけに、犬童監督が17年8月から19年11月までパリ、東京、福島、広島、愛媛など3カ国、33カ所で踊りを撮影した。各所で披露した踊りを田中は「場踊り」と呼ぶ。


「踊った時に押し寄せる、さまざまなものを感じ取った、その場所でキャッチした、その場所のための踊り。僕のものではない」


これまで、踊りを映像に撮られ、記録し、放映されることに嫌悪感すら抱き続けてきた。


「踊った時に体に押し寄せたものは、映像になると消える。ライブで踊っている時とは全然、違う。そのまま流しているのは、ことごとく好きじゃなかった」


犬童監督の映像は、地面や木と一体にならんかのように密着していく田中、踊りに見入る観客、踊った後、質問攻めに遭う田中まで全体を俯瞰(ふかん)するように撮られている。「内面的に踊っている人は、いっぱいいる」と語る観客の感想は、ダンサーと観客の間に踊りが生まれると語る田中の本質を突いている。


「犬童さんはどこに行っても俯瞰(ふかん)できる場所を一生懸命、探している感じが印象に残っています。僕が確かに踊っているけれど、犬童さんが(編集して)踊りとして作り上げている。踊りは見た人の中で生まれ変わっているはず。それを犬童さんが映画作品として実現してくれた」


踊り始めるきっかけは、いじめをかわそうと輪の中に飛び込んだ盆踊りだった。


「(1945年)3月10日、東京大空襲の日に母から未熟児状態で生まれ、中学校の終わりくらいまではチビだった。1人で遊ぶことが圧倒的に多かったんですけど、しょっちゅう盆踊りに出掛けて。大人の中で踊っていれば、子供はいじめは出来ない。逃げ場でもあるんだけど、隠れているわけじゃない…僕は堂々と踊っているわけですから。安心して夢中になったことを覚えています」


体が弱いことを心配した母の勧めで中学でバスケットボールを始め、東京教育大(現筑波大)に進んだ。


「病気は大してしないけど運動が全然ダメで心配した母親に強引にやらされた。でも大学に入った瞬間、ダメだと思いました。全国から来た同学年と比べても圧倒的に劣ることが、すぐ分かった。1つの大学でそうだから、日本の平均よりはるかに下だと認識できた」

▼▼後編 世界に衝撃を与えた裸体舞踊「日本では何度も捕まった」▼▼

挫折して、64年にモダンバレエを習い始めた。


「踊りに夢中になった子供の頃の思い出を、忘れていないわけですよ。外国の舞踊団の踊りは気にしてテレビで見ていました。すげぇ、これも踊りなんだと。スポーツに完璧に挫折して…頭でっかちな子だったから、絶望したんであれば芸術だ、ひっくり返してやろうと思って踊りを習おうと」


東京五輪の芸術イベントで初舞台を踏むと65年に大学を中退。翌66年にソロダンス活動を始めるも形のある踊りに違和感を覚えた。


「舞台から一方的に踊りを見てもらい、評価されて、ヘタすると点数、ランクまで付けられるって何なんだろうと習い始めて、すぐ気付きました。好きでやってみようと思ったので10年くらいやっちゃったけど…」


74年に独自の舞踊活動を始めた。芸術になる前の踊りを探ろう、自らを消し去ろうと髪や体毛を剃り、局部を布で巻く裸体舞踊で自らをさらした。78年にパリで開催された「間・日本の時空間展」で披露し、世界に衝撃を与えた。


「日本では公然わいせつになっちゃうので何度も捕まった。母親が子供の手を引っ張って連れ戻し『見ちゃいけません』って言ったり…目の前でやられると、ちょっと傷つきますね。でも海外では子供は一番前で見てくれた。今の日本の子供は恐らく、母親の顔を見て『これはいいことなのか悪いことなのか教えて』『やっちゃいけないことなんじゃないか』とか社会的規範を求めるようになっている」


85年には野良仕事で作った体で踊ると決め、山梨県に移住し“桃花村”を開いた。日々、農業をし、猫9匹と暮らして作り上げた肉体は76歳とは思えない、しなやかな筋肉に包まれる。


「住んでいるところは標高1000メートルで、平らなところは家の中だけ。出ると全部デコボコ。斜面ばかりの中で仕事するので足の裏はこんなになって(波打って)いる。鉄棒はぶら下がりしかできないけれど瞬間的な力は結構、出せます」


57歳で俳優業に踏み出したが、演じる役として生きることへのアプローチは正業の俳優と根本的に違う。


「俳優の何割かは口から声を出すことの技術が相当の重みを占めているが、僕は訓練を全くしていない。せりふに取り掛かるのは、その人になる最後。最初は体がどんな風に存在しているか。おなかを出して座る人と引いて座る人では恐らく違う人生なんです。しぐさ1つ取っても、その人になるか、ならないかは出てくる…それが楽しみでやっている。その部分は僕にとって踊りに近い行為です」


では踊りとは何なのか?


「言葉を発明していない時代は、人の体を見ると気持ちまで感じ取る力を持っていたんじゃないか…そういう中で自然に発生したのが踊り。(言葉以前の意思伝達手段は)踊りだと思います。習ったこともない人が、踊るかのように体を動かしたら何と名付けます? でも、踊りです。寝たきりの人が、まぶたをパチパチやるだけで言葉にならない、とんでもない踊りを見せてくれていると思う」


「今は音楽と一緒じゃないと踊りじゃなくなっちゃう。メトロノームのように正確にリズムを刻むものに人間の体が合わせられるわけがない。何の意味もないリズムに合っていることが、見る方にとって快感だったりするわけですが、踊りを得意とするという言葉が矛盾している。あなたがやっていることが本当に踊りの神髄ですか? と。芸術点と呼んで足首まで真っすぐ伸ばす体操、スポーツの方が踊りに近づいてくる。でも、美しくなるために作ってやっているわけだから踊りじゃない。必要で生まれた最初の頃の踊りが一体、どこに残っていくのか…僕はすごい気がかりです」


だからこそ目指すものは、ただ1つだ。


「踊りを無名のものにしたい。田中泯の踊りと絶対に固定されないためにやっていきたい」


▼犬童一心監督

05年の映画「メゾン・ド・ヒミコ」の出演交渉に山梨に行き「演技は出来ないけれど、その場所に一生懸命いることは出来る。ダンスでやってきたことだから」と言われ、どういうことか、ずっと確かめたかった。ポルトガルで8つの踊りを撮り、15分に編集したらすばらしく映画に出来るかなと思ったのが始まり。1つ大事なのは撮影中、インタビューしなかったこと。言葉で説明されそうなのが怖いので、ダンスのことは1回も聞かないようにしました。


◆田中泯(たなか・みん)

1945年(昭20)3月10日、東京生まれ。02年の映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)で銀幕デビューを果たし日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。昨年「いのちの停車場」で吉永小百合と初共演するなど映画への出演多数。