今シーズンに3度目のJリーガーになる男がいる。新たにJ3に参入するFC大阪所属のGK笠原淳(33)。公立中高時代にレギュラーになれなかったプレーヤーがいかにしてプロサッカー選手になったのか。異色のキャリアをひもといた。
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県内屈指の進学校、新潟高校2年の夏。笠原は突然思った。
「プロサッカー選手になりてえ」
サッカー少年は誰しも一度は「プロサッカー選手になりたい」と夢見る。しかし、年齢を重ねると次第に現実を知り、諦めるケースも多くある。
笠原も例に漏れずそのような選手だったという。
「小学校はまずDFだし。中学からキーパーになったけど、中学校でも別に試合には出ていないのよ。トレセンとかも入ったことないし、選考会すらいったことない。高2までは普通に進学するって思っていたんだけど、なんかプロになりたいって思ったんだよね」
高校でも1学年下の代の選手がレギュラーGKだった。しかし一度火が付くと、「プロになりてえ」という思いを抑えきれなかった。
セレクション情報などを調べ上げ、高校3年の11月にザスパクサツ群馬のU-23(現チャンレジャーズ)に受かった。
親からは「やりたいなら大学に受かることが条件」といわれ、そこから猛勉強し、東京学芸大学に現役合格した。
大学に1日も通うことなく休学して活動したザスパ時代は、トップチームの練習に帯同することもあったが、「これは無理だ。Jリーグなんて…」とレベルの高さにがくぜんとした。
■入部セレクション落ちた
大学に復学し、関東2部リーグに所属していた東京学芸大学のサッカー部に加入し、4年間部活動でレベルアップしてからプロに再挑戦しようと考え直した。
「それまで(東京学芸大学)サッカー部のセレクションってなかったんだけど、その代からセレクションあるってなって。それでキーパー7、8人いて。ザスパで1年やって、背も一番でかかったし、メンバー見たら『さすがに受かんだろ』って思っていたら落ちて…。1カ月くらいセレクションやって落ちたからやばいなって思って」
思わぬ落とし穴だった。大学に戻るも、まさかのサッカー部セレクションに不合格。大学1年生として授業を受けながら活動できる社会人チームを探した。
つてをたどって当時関東1部リーグ所属のACアルマレッザ飯能(現・ACアルマレッザ入間)に加入して1シーズン過ごした。しかし、「これじゃあプロになれねえ」と痛感し、ザスパに復帰する。
ただ大学を2年間休学し、ザスパで2年活動するも、鳴かず飛ばず。大学に戻ることを決意する。
「ほとぼりも冷めたし、セレクション行ったら受かるだろって思って」と4歳下の選手に交じってセレクションを受け、合格。22歳で大学サッカー部員となった。
「でも結局1回もトップチーム登録されなかったね。1年目もBチームで、2年目もBチームでIリーグ(インディペンデンスリーグ)に出たね」
13年度に大学の単位を通算3年で取り終え、プロへの道を探った。関東大学サッカーリーグへの出場は1度もなかったが、プロサッカー選手になれることを疑わなかった。
「(プロの)セレクションとかをいろいろ探したよ。相模原とか、藤枝、琉球とかも受けた。アルビレックスシンガポールも受けた。その時タイミングめっちゃよくて、J3が来年からできるっていう時だった」と運も味方した。
■FC琉球に「奇跡」の合格
J3開設直前で「プロサッカー選手」が大幅に増える年だった。当時J3に参入することが決まっていたFC琉球にセレクションで合格し、加入が決まった。周囲からも「奇跡」と言われるシンデレラストーリーだった。
笠原はプロサッカー選手になった勢いそのままに開幕スタメンを勝ち取る。
8試合連続で出場。3試合はさみ、再び先発を奪い取って2試合目の7月27日、第19節ガイナーレ鳥取戦で人生が変わった。
「イレギュラーまじでしていたんだけど、味方からのバックパスを空振って、追ってきた(相手)FWフェルナンジーニョにとられた。そこからメンバー外」
キーパーとして致命的なミスを犯し、チームの構想外となった。第2キーパーがケガをし、自分以外誰もキーパーがいない状況になっても、ベンチメンバーに入れない屈辱も味わった。
当然のごとく1シーズンで契約満了となった。
■26歳で一度現役引退から一転
Jクラブから声がかかるわけもなく、ザスパ時代の監督が指揮を執っていた北信越1部リーグ所属のサルウコス福井に練習参加し、加入した。そこではレギュラーを獲得し、JFL参入のための地域決定戦まで進んだが、あと1歩のところで昇格を逃した。
「もう厳しいなってなって。レベルも高くないし、面白くもないからやめようって思って。引退のリリースは出していないけどサッカーやめたのよ」と26歳で現役を退いた。
「それで、警視庁受けていたのよ。機動隊サッカー部があるって聞いて」と現役引退こそしたものの、サッカーを軸に次の職を選んだ。
地頭の良さは健在で、警視庁の筆記試験をパスし、最終面接まで進んだ。面接後に結果を待っていた3月、突然スマートフォンが鳴った。
「グルージャ盛岡(現・いわてグルージャ盛岡)が選手を探している」
ザスパ時代の知り合いからだった。当時J3のグルージャは第2キーパーがアキレス腱(けん)を断裂し、第3キーパーが契約解除となって、リーグ戦まっただ中でチームに1人しかキーパーがいない非常事態に陥っていた。
現役を引退してすでに5カ月がたっていた。体も動かしていなければ、もちろんボールは蹴っていない。
しかし、電話主は「何もやっていないやつを取るわけにはいかないから、動いていたことにして」と告げたという。
「東京の友だちの家に居候してバイトとかしていたんだけど、すぐに学芸(大サッカー部)の練習いった。当時の監督は面識なかったけど、『学芸で練習していたことにしてください』ってお願いしたよ」
■グルージャ盛岡入りも公式戦ゼロ
当時のグルージャを率いていたのは、前年まで長らく明治大を指揮していた神川明彦監督だった。関東大学サッカー事情には精通しているはずだが、関東リーグ出場経験のない笠原のことは知らなかったという。
「一応テストっていう感じでぶっつけ本番で練習試合出て、とりあえずこなして。ちょんぼさえしなければいいと思って。一応2年前(琉球時代)に試合しているから、神川さんは1年目だから知らないけど、コーチとかキーパーコーチとかは知っているから、それで入り込んで、それが2回目のJリーガー。運良いよ、やっぱり」としみじみ振り返った。
そこから4シーズン、グルージャでプレーすることになる。しかし、2番手、3番手争いを繰り広げ、公式戦出場は0だった。
19年に契約満了で退団し、Jリーグのトライアウトを受けた。当日、かなり調子が良く、カマタマーレ讃岐から声がかかったという。
「何人か候補がいるうちの1人だから少し待ってくれ」と言われ、待遇のいい地域リーグや海外チームからも声がかかったが、自信があったこともあり全て断った。
年明けに讃岐からまさかの連絡があった。断りの電話だった。
途方に暮れていると、琉球時代のチームメートがJFL所属のMIOびわこ滋賀でコーチをやっていることを知った。すぐに連絡し、練習参加を経て、加入した。初のJFLだった。
1シーズン目はコロナの影響もあり、出場はかなわなかったが、2シーズン目途中に出番が回ってきた。
■J3ライセンスあるFC大阪加入
「何年ぶりかのリーグ戦よ。そこで結構なちょんぼしたのよ。その1試合で変えられた。で、それもあって(試合に)出られなくなって。あとMIOってライセンス的に資格がなくて、31歳それはできないなってなって、やめて。J3ライセンスあるところに行こうって思った。いけなかったらサッカー辞めようっていう気持ちでFC大阪のセレクションいったんだよね。それでOKってなった」
32歳で迎えるJFL3シーズン目。タレントぞろいのFC大阪は、シーズン序盤から上位に付け、2位に入り、見事J3昇格を達成した。
笠原は、チームの昇格に伴い、自身3度目のJリーガーとなった。ただ現状には全く満足していないという。
「1番手(永井建成)がいて、2番手を筑波から新卒できた選手(櫻庭立樹)と争うみたいな感じで終わった」
2度の負傷離脱もあり、公式戦出場はまたもゼロに終わっていたからだ。
「これでJリーグに出るってなると、9年ぶり。やっぱね、時計の針を進めたい感じはあるよね。レギュラー争いっていう意味では選手の特徴も分かっているし、ライセンスの問題で新しい監督に変わって、その監督の下で、自分の良さを出していって試合に出たいなって思う」
■ぶれない男「自分を信じる力は強い」
持ち味は粘り強さだ。
「長くサッカーはしているけど、公式戦出た数とかは(争う)2人の方が多い。おれからみたらエリート。その分、おれは下積みじゃないけど、サッカー選手なれるか分からない状況から、この場に立っているのは、“もっている”のかもしれないし、ぶれずにやり続ける、自分を信じてやり続ける力は、もしかしたら強いんじゃないかなって思うから、自分を信じてぶれずに、続けるっていうことは持ち味」
がむしゃらにプロを目指していた笠原も30代となり、客観的に自分を見られるようになった。
「今の立ち位置にいるのはよくやってるぞっていうのはありつつ、ただ『お前まだ何も成し遂げていないぞ』っていうのもある。ただちょっとJリーグにいた人だぞっていう。なんか二面性がある」と心境をつぶやいた。
今年、サッカー選手として10シーズン目となる。プロサッカー選手の平均引退年齢26歳を大きく上回っている。
現在は、午前中の練習後に、引退後を見据えて会計事務所で仕事をしながらサッカーを続ける。
JFLやJ3の選手は、午前中にチーム練習をし、午後はチームがあっせんする企業などで働くケースが多いという。笠原も琉球時代はコールセンター、グルージャ時代はホテルで働いた。
サッカーのみの給料について「チームや人によって違うけど、平均すると月額20万くらいじゃないかな」と明かした。個人事業主なため、社会保険なども自分で支払いに行く。決して裕福な暮らしが約束されているわけではない。
■「やっとスタートラインに立てた」
なぜここまで続けられるのか。
「やっぱり試合に出ていないから、試合に出たいっていうところが大きいかな。正直おれの学生とか、大学生の頃の目標が『Jリーガーになる』だったから、2014年に達成された感じがある。おれのスタートからしてJ1で活躍するとかって、結構、現実的じゃなかったから、『Jリーガーになる』っていう目標が、高校時代からしたら、とてつもない遠いことだった。Jリーガーになっちゃったから、満足はしていないと自分では思ってはいたけど、たぶん、どこかでそういう気持ちがあった。今、正直3回目だけど、Jリーガーになれたという喜びはなくて、やっとここのスタートラインに立てたなみたいな。ここからだな、みたいな」
さらにこう続けた。
「幸せだね、毎日。34歳にもなって毎日9時から天然芝の上でボール蹴られる人いないでしょなかなか。幸せよ。サッカーは楽しいね」
それは年齢を重ねてもうまくなっている実感があるからだという。
「フィジカル面で下がっているとは思わない。疲れが抜けにくくなっているけど、大学時代よりうまくなっているな。(うまい人との練習で)引き上げられるというか、キーパーコーチがいるっていうのはやっぱ違うね。去年、キャッチから変わったし。基本のキャッチだよ。新しい人から教えられて実際うまくなるし、(ボールを)とれるようになるし。そう思ったら練習行くのが楽しいし、32でうまくなれた。まだまだうまくなれるんだって思ったね」
■自身が大事にする松岡修造の言葉
笠原のように、強豪校ではないチームや、レギュラーではない選手の中にもプロサッカー選手を本気で目指すプレーヤーはいるだろう。
そんな選手へのメッセージを求めると、自身が大切にしている言葉を紹介した。元テニス選手で人気タレントの松岡修造の名言である。
「100回たたくと壊れる壁があったとする。でもみんな何回たたけば壊れるかわからないから、90回まで来ていても途中であきらめてしまう」
その上で「そこでやめたらゼロ。だけどやめない限り可能性はゼロじゃない!自分で自分を諦めるな!」と熱く語った。
最後に今季の目標を問うと、「チームとしてはJ2昇格」。
「やっぱりまだ大阪第3のチームで、ガンバ(大阪)セレッソ(大阪)がいるから、おこがましいけどJ2昇格して、早くその2チームに並べるように。個人はやっぱり試合に出たいね。チームの勝利に貢献したいね。ありきたりだけど、やっぱりそこだね」
シンプルな目標に、「プロサッカー選手」としての矜持(きょうじ)が垣間見えた。
【佐藤成】