日本フィギュアの歴史

スコーバレー五輪の会場で必死の8ミリ撮影

世界で戦うこと以上に、大事なことがあった。情報収集。浅田真央らを指導した佐藤信夫(75)は18歳の時、60年スコーバレー五輪に出場する。初の国際大会。佐藤は世界のトップたちの演技を間近で見ることに心を躍らせた。まだテレビは普及しておらず、海外の映像は簡単に見られない。もともと映像に興味のあった佐藤は8ミリ撮影機を持参した。

59年12月、スコーバレー冬季五輪代表合宿の早朝練習で、やかんのお湯で暖を取る代表選手たち。左から田山秀士監督、上野純子、佐藤信夫、福原美和
59年12月、スコーバレー冬季五輪代表合宿の早朝練習で、やかんのお湯で暖を取る代表選手たち。左から田山秀士監督、上野純子、佐藤信夫、福原美和

五輪では前半の組で、自らの演技を終えると、すぐに観客席に向かった。金メダルを獲得したデヴィット・ジェンキンス(米国)の演技を、8ミリ映写機で撮影する。「ゴムまりのようなジャンプ。別世界の人間だと思った。夢中だったから、慌ててしまった」。当時の8ミリは電動ではなく手動。30秒ごとにゼンマイを巻かなければいけないから、焦る。大事なジェンキンスの演技のときに、重ね撮りをしてしまった。

「映像では2人のジェンキンスが滑っていた」と苦笑いしたが、それほど撮影に必死だった。スマホで簡単に動画を撮れる現代とは違う。世界のトップ選手の映像は貴重だった。初の五輪は14位に終わったが、帰国後は、コーチの山下艶子(89)やクラブの仲間たちと何度も映像を見て、研究した。外国人選手の演技を見よう見まねに励んだが、劣悪な練習環境の中では簡単ではなかった。

整氷機はなかったため、リンクの凸凹は選手自らが削った。練習前に30分以上もリンク整備に時間を取られる。「欧米勢はちゃんとした半紙に字を書いていたが、国内では新聞紙に字を書くような感じ」と、書道に例えながら、当時の恵まれない環境を説明した。そんな中でも、佐藤は競技には妥協を許さない。64年インスブルック五輪は8位入賞。65年世界選手権(米国)では日本人初の3回転サルコーを決め4位。フリーだけなら3位に入る快挙を実現した。

全日本選手権では今でも不滅の史上最多10連覇を達成し、66年に24歳で引退する。コーチとして参加した68年グルノーブル五輪。日本選手は表彰台に立てなかったが、次回大会の72年札幌五輪の成功を期して、会場に「君が代」が流れた。感動し、胸を熱くした佐藤は仲間に「やっぱり勝たないとだめだな」とつぶやいた。

「当時は“日本人なんて勝てるわけがない”が決まり文句。フィギュアがこんなに隆盛した時代を迎えたことは、不思議な感じもするけど、我々がもがいた時代から何かが生まれたことも事実だと思う。どう役に立ったかはわからないが」。札幌五輪はメダルなしに終わったが、70年代後半に入ると、男子の佐野稔(62)と、「和製ジャネット・リン」と呼ばれた渡部絵美(58)ら世界のメダルを狙える逸材が出現する。(敬称略=つづく)(2017年11月18日紙面から。年齢は掲載当時)

欧米中心に発展したフィギュアスケート。近年の浅田、羽生、宇野ら日本勢が隆盛を誇るまでには、長い苦難の道程があった。日本フィギュアの足跡をたどる。

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