ブルーザー・ブロディとは㊤ 最も信頼された記者が語る最強外国人の素顔

7月17日は今も“最強外国人プロレスラー”と言われるブルーザー・ブロディさん(享年42)の命日になる。今から34年前の88年7月16日、プエルトリコ遠征中に腹部を刺され、翌17日に亡くなった。日本では全日本と新日本の両団体でジャイアント馬場やアントニオ猪木と名勝負を繰り広げ、トップ外国人レスラーとして一時代を築いた。当時、東京スポーツの記者としてブロディさんに最も信頼され、米国の自宅でも取材経験のある、プロレス解説者の柴田惣一氏(63)にブロディの知られざる素顔、最強説について聞いた。前編。

バトル

取材・構成,首藤正徳

<プロレス解説者柴田氏が7月17日命日を前に故人をしのぶ>

ジャンボ鶴田(下)の腕を決めるブルーザ・ブロディ(1985年3月14日)

ジャンボ鶴田(下)の腕を決めるブルーザ・ブロディ(1985年3月14日)

◆ブルーザー・ブロディ 1946年6月18日、米ミシガン州デトロイト生まれ。本名はフランク・グーディッシュ。ウエスト・テキサス州立大でアメリカンフットボールの選手として活躍。68年にNFLのワシントン・レッドスキンズに入団したが、膝を痛めて引退。74年4月にプロレスデビュー。79年1月に全日本プロレスに初来日。81年10月にドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取。世界最強タッグ決定リーグ戦では優勝1回、準優勝2回。85年に新日本に移籍も、87年に全日本復帰。88年7月16日、プエルトリコ遠征中に腹部を刺され、翌17日に死去。得意技はキングコング・ニー・ドロップ、ギロチン・ドロップなど多数。198センチ、135キロ。

ブロディの思い出を語る柴田惣一氏

ブロディの思い出を語る柴田惣一氏

◆柴田惣一(しばた・そういち)1958年9月11日、愛知県岡崎市生まれ。学習院大卒。82年に東京スポーツ新聞社に入社。プロレス担当記者、第二運動部部長、プロレス大賞選考委員長、WEB東スポ編集長などを歴任。94年から四半世紀にわたり新日本プロレス中継番組「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日系)の解説者を務める。15年に東京スポーツ新聞社を退社。その後、プロレスサイトの「プロレスTIME」や「プロレスTODAY」の編集長を務めた。

ハンセンと超獣コンビ

初来日からブロディは「超獣」だった。79年1月、全日本プロレスのリングに初参戦。タッグマッチでエースのジャイアント馬場と対戦し、得意技のニー・ドロップでフォールを奪った。ナチュラルなパワーとスピード、凶暴性を秘めたラフファイト、そして無類のタフネス……完全無欠の強さで、すぐにトップ外国人レスラーの座にのし上がった。81年にジミー・スヌーカとのコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦を制覇すると、82年からはスタン・ハンセンとの“超獣コンビ”で大暴れした。

柴田氏 私が初めて彼をインタビューしたのが、絶頂期の82年でした。リングの上の凶暴なイメージとは正反対で、知的で優くて、実に誠実に対応してくれました。私が彼の話す英語の意味が理解できないような顔をすると、すぐに察して別の表現で言い換えてくれました。気の利いたコメントもしてくれる。私が英和辞典で単語の意味を調べようとすると「おれが見てやるよ」と辞書を取り上げて「これだよ」と教えてくれたりもしました。一方的にまくし立てるレスラーが多い中、彼は違うなと感心しました。インタビューしていて誰よりも楽しかった。

全日本プロレス スタン・ハンセン(右)とブルーザー・ブロディのタッグ(1984年12月12日)

全日本プロレス スタン・ハンセン(右)とブルーザー・ブロディのタッグ(1984年12月12日)

ブロディはウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活躍。NFLのワシントン・レッドスキンズに入団したが、ひざを痛めて引退した。その後のキャリアが、丁寧なインタビューの対応に影響していると柴田氏は推察する。

柴田氏 彼はプロレスラーに転身する前、フットボールの経験を生かして、朝刊紙「ダラス・モーニングニュース」のスポーツ欄にコラムを書いていたそうです。つまり私たちと同業者だったんですね。だからインタビューにも真摯(しんし)に真面目に答えてくれたのではないでしょうか。私も当時は東京スポーツの記者でしたから、彼の経歴を知っていたので、親近感がありました。

ギロチンドロップを見舞うブルーザー・ブロディ(88年4月9日)

ギロチンドロップを見舞うブルーザー・ブロディ(88年4月9日)

86年には米テキサス州サンアントニオ郊外にあるブロディ氏の自宅を訪問してインタビューしたという。そこで彼のまた別の一面を垣間見たという。

柴田氏 サンアントニオと言えば「アラモの砦(とりで)」など観光名所があります。楽しみにしていました。ブロディが「オレがホテルを紹介してやる」と言うのでお願いしたら、街外れの2階建ての質素なモーテルでした。モーテルの中でも、おそらく一番リーズナブルな部類だと思います。迎えにきてくれた彼が乗っていた車がピックアップトラック(荷台付小型貨物車)。本人もTシャツに短パンの身軽な格好で、最初は誰だか分からなかった。ヒゲで気が付きましたけどね。宿は泊まれればいい、車は走ればいい、服は着られればいいという感じでした。日本でかなり稼いでいたし、お金はあるのに、生活は本当に質素でした。

ブロディの自宅は街外れのモーテルから車で40~50分の広大な敷地の中にあった。その自宅を訪問した際の、一家の対応も印象に残っているという。

柴田氏 敷地は東京ドームよりも広かったと思います。ニュージーランド人のバーバラ夫人と、まだ幼い長男が迎えてくれたのですが、ブロディはどちらかというと繊細な性格なのですが、夫人はさらに繊細な人でした。アブドラ・ザ・ブッチャーをはじめ、米国人レスラーたちは、取材で自宅を訪れると、奥さんが手料理をつくってくれたりして歓迎してくれるのですが、ブロディ一家はきっちりと対応はしてくれるけど、そこまでフレンドリーではなかった。お茶は出してくれましたけどね。

ジャンボ鶴田(下)の腕を決めたままリングに倒すブルーザ・ブロディ(1985年3月14日)

ジャンボ鶴田(下)の腕を決めたままリングに倒すブルーザ・ブロディ(1985年3月14日)

外国人レスラーたちの大部分は、ファイトマネーをきっちり稼ぎに来る。しっかりと日本で稼いで、お金をためて帰国する。だから、倹約家が多いと言われる。それでもブロディの倹約ぶりは際立っていたという。

柴田氏 例えばNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーは気前がよくて、大勢でスポーツバーに行くと「全部オレが払うよ」と言って、おごってくれる。本当にチャンピオンという感じ。でもブロディとハンセンは外国人レスラー同士では割り勘だった。2人ともケチではなくて、いい意味での倹約家でした。アメリカでは小さな団体で試合をすることが多かったから、日本ほどギャラはもらっていなかったと思います。プロレスラーはいつケガをして選手生命が断たれるか分からない。稼げるうちにしっかり稼いで、お金をためておこうということだったと思います。経済にも詳しかったから、投資もしていたと思います。