初出場の多田修平(25=住友電工)が1組で10秒22で6着となり、準決勝へは進めなかった。

「自分の走りができなかった。非常に悔しい」と振り返った。隣のレーンから飛び出した選手にスタートから出られる形となり、「いつもより力んで走ってしまった。もったいなかった」。五輪特有の雰囲気にのまれた。「すごい緊張したが、そこで自分の走りを貫けないと強い選手ではない」。言い訳はしなかった。

待ちわびた舞台だった。6月の日本選手権で初優勝。山県亮太、桐生祥秀らライバルに先着し、五輪切符をつかんだ。緊張は極限に達し、2週間ほど経っても「まだ(疲労度が)残っている」というほどの反動だった。「日本選手権はガチガチだったけれど、五輪は初出場。過度に緊張しすぎず、リラックスして楽しめたらいい」。そう誓い、国立のスタートラインに立った。

スポーツが大好きな少年だった。小学校低学年で水泳、サッカーを経験し「動くことが好きで、走ることが好きだった。それでピッチが上がってきたんじゃないか」と自己分析する。東大阪市の石切中で陸上と出会った。3年だった11年9月。大阪府の記録会で男子100メートルに出場し、決勝で8位。全国的には無名だったが、大阪桐蔭高の花牟禮(はなむれ)武監督に突然「ウチに来ないか。俺にだまされろ」とに誘われた。言われるがままに進学し、翌春に立ち上がった陸上部(駅伝部は11年に創部)へと入部した。

高校で土台を作り、関西学院大3年時に一気に開花。世界選手権(ロンドン)初出場を果たし、日本を代表するスプリンターの1人になった。

5年前の16年リオデジャネイロ五輪。山県、飯塚翔太、桐生、ケンブリッジ飛鳥が400メートルリレーで銀メダルを獲得し「先輩方が『日本の選手はここまで戦えるんだ』と示してくれて、逆に僕自身も陸上に熱が入った」と言った。今度は視線を注がれる立場となり、今の力を出し切った。