後藤希友投手(20=トヨタ自動車)は今大会、6試合中5試合に登板し、無失点。10回3分の2を投げ22三振を奪い、何度も危機を救った。

中学時代から90キロ台の速球で頭角を現し、高校生で代表に初招集された。厳しい表情で勢いよく投げ込む速球と、物おじせずに相手の目を見てはっきりと話す姿は、代表初選出時から変わらない。

実は、記者は打席で後藤のすごさを目の当たりにしたことがある。19年12月の沖縄合宿。宇津木監督の発案で行われた、報道陣との野球大会で1打席だけ“対戦”した。先発マウンドに立ったのは後藤だった。ほほ笑みながら容赦なく100キロ超の直球をどんどん投げ込み、報道陣を黙らせた。

記者との対戦では初球から2球続けてまさかのチェンジアップ。草野球歴30年の記者は「なめられた」と思ったが、その後4球はすべて直球。全く手が出ず、最後は空振り三振を喫した。大きく足を出し「来るぞ」と思った次の瞬間、ボールは捕手のミットに収まっていた。

対戦後、後藤は「普通に投げようと。気を付けたのは、当てないように外角に投げたくらいですかね。自分も初めてだったので楽しかったですよ」。さらに「ボールを長く見ること。見てからでは遅いですが、とにかく振ることですかね。やっていれば、すぐに慣れると思いますよ」と打撃指導までしてくれた。素人相手にも手を抜かず、余裕の表情で話す堂々とした姿に大器の片りんをうかがわせた。

最年少で精神的な不安なく、代表でやっていけたのは周りの選手の優しい気遣いがあったから。後藤は「先輩たちが細かいこともていねいに教えてくれる」と語る。それでも当時はまだ18歳。粗削りな部分も多く、上野は「まだ(世界に)通用するレベルではない」と評価は厳しかった。1年半たち、球速も技術もアップした後藤は投手3人という狭き代表の座を獲得。今大会では、ピンチを招いた上野を救い「最後後藤がしっかり抑えてくれて良かった。力のあるボールを投げるし、期待していた」と褒めてもらうまでに成長した。

20歳で金メダルを獲得した。涙を見せながら先輩たちに抱きついた。「一生に1度しかない東京の五輪を、人生の中で経験できた。日本で開催されるのは現役の中でないと思う。すごく最高な経験ができました」。東京の後の24年パリ五輪では再び競技が消滅する。28年ロサンゼルス五輪で復活した時には、27歳となった後藤がエースとしてマウンドに立つ姿が見られるだろう。【松熊洋介】