侍ジャパンが、歓喜の頂点に立った。東京五輪の野球決勝で、日本が2-0で米国に競り勝ち、公開種目だった84年のロサンゼルス五輪以来、正式種目としては初の金メダルを5連勝で獲得した。

17年に就任した稲葉篤紀監督(49)は、集大成のラスト一戦で歓喜の涙を流した。次回24年のパリ五輪では野球競技は行われない。長嶋茂雄氏、星野仙一氏ら球界の先人たちが目指した頂に、ついに立った。

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表彰式が終わる直前、降り出した雨が金メダルをぬらした。終始、涙なく喜び合う若き侍たちに代わる、五輪に挑み続けた先人の歓喜の涙のようだった。長い旅路を終えた稲葉監督は、試合終了の瞬間から涙腺が崩れた。「みんなここまで一生懸命やってくれて、そういう思いが最後にグッときた」と浸った。

五輪の重みを受け止めてきた。00年シドニー五輪からプロに扉が開かれ、04年アテネ五輪以降はオールプロで臨んだ。だが金メダルを切望されながら届かない。長嶋監督が病に倒れ、自身も選手として仕えた星野監督が非難にさらされた。「星野さんのお孫さんも学校でいろいろ言われたと聞いた。自分の子どもも言われるかもしれない。僕は何を言われてもいい。選手は家族を犠牲にして日の丸を背負っている」。守り抜く覚悟を携えてきた。

かつて五輪の野球は日本の中心になかった。1984年、同じ8月7日。ロサンゼルス五輪決勝。野球の母国、米国がその時も相手だった。5万8000人のドジャースタジアム。「ライフルで命を狙われる意識もあった」。当時のナインは言う。決死でつかんだ金メダルも帰国した成田空港に喧噪(けんそう)は起きなかった。

後世に大きく伝わらない戦いが原点となった。19年の年末。稲葉監督は1枚のDVDを手にした。30年以上前の映像は粗く、ノイズも交じる。映し出されたのはロス五輪決勝戦。優勝の瞬間は「勝てばああいう喜びが生まれる」と近未来を想像した。

球場にブーイングはなく、スタンディングオベーションに包まれた。米国人実況は「野球にとって素晴らしい1週間だった」と国籍関係なく、たたえた。「五輪の先に野球に興味を持つ子どもを増やせるか。もう1度、野球をやってもらいたい。そんな時代が来ないかなと」。金メダルの先にある光景を追い求めた。

理想があるからこそ、信念は揺らがない。代表選考では状態より「実績重視」と非難された。実績重視は代表で苦楽をともにした「情」とも捉えられた。だが時には断も下した。巨人菅野は内定発表後の復帰戦でKOされ、復調が見込めなかった。電話をかけた。「焦らせてしまったかな。ごめんな」。最終的な辞退の決断は菅野だが、右腕を使命感から解放させるために促したともいえる。情と非情のはざまに立ち続けた。

苦悩の末に信じ抜いた侍は頼もしかった。スクイズが想定された場面で甲斐は強攻を、強攻の場面で坂本は犠打を、自ら稲葉監督に申し出た。選手の多くが五輪野球を肌で知らない。会見で96年アトランタ五輪銀メダルについて聞かれた山田は「4歳で覚えてない」と答え、山本は「僕はまだ生まれていない」と笑う。新しい世代がノビノビと五輪で躍動する。「俺らがキュウキュウと考えているのに、何で選手たちは楽しんでやっているんだろう? すごいね」。指揮官の思いに選手の感性が融合され、歴史を塗り替えた。

無観客開催で歴史的瞬間に立ち会った人は限られた。だが東京五輪の金メダルは、多くの人の手に触れられるだろう。メダルがもらえない稲葉監督も菊池涼から首に下げられ、心地よい重みを感じた。「素晴らしい色をして、重量感があった。世界に日本の強さを見せられた。これで子どもも大人も野球を始めてほしい。我々は普及する役割も担っている」。永久に残る手触りが、未来の野球への愛を深める。【広重竜太郎】