敷根崇裕(23=ネクサス)西藤俊哉(24=セプテーニホールディングス)主将の松山恭助(24=JTB)とリザーブ永野雄大(22=ネクサス)の日本が、メダル獲得の夢を持ち越した。3位決定戦で世界ランキング1位(日本は6位)の米国に31-45で完敗。この種目で太田雄貴らが獲得した銀2個に続く銅の輝きを得ることはできなかったが、準々決勝で同3位の格上イタリアを破るなど躍進。お家芸の未来を担う平均年齢23歳の剣士たちは3年後の24年パリ五輪を見据えた。

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世界ランク1位の米国に14点差ではね返されると、松山はピスト(競技コート)で泣き崩れ、オレグ・コーチに抱きしめられた。3選手が3試合ずつ戦う団体戦。全9ピリオド(P)で2分け7敗と1戦も勝てず力の差を見せつけられた。

ただ、可能性は大いに示した。自力で出場権をつかめず開催国枠に救われた夢舞台で、下克上。初戦の準々決勝で世界ランク3位のイタリアに逆転勝ちした。松山は、前回16年リオデジャネイロ五輪の個人金メダリストで、今回は銀のD・ガロッツォにアンカー対決で勝利。個人戦で敗れていた借りも返した。個人でも4位だった敷根や、17年に19歳で世界選手権の銀メダルを取った西藤も、攻めて耐えて、仲間につないだ。

準決勝では、今大会の金メダルを45-28の圧勝で獲得したフランスに42-45と肉薄した。8点を追う最終Pに松山がゾーンに入る。一時1点差と迫る驚異の追い上げで、フェンシング発祥国の1つを慌てさせた。

期待された黄金世代だった。松山はリオ五輪に練習パートナーとして同行し、引退した太田から男子フルーレ日本代表の主将に後継指名された。太田以来のインターハイ3連覇を遂げた有望株だが、まだ19歳だった。西藤は14歳で長野から上京し、JOCエリートアカデミーに入校。元日本代表の裕一さんを父に持つ敷根も、大分から東京へ来て英才教育を施された。補欠から昇格し、決勝に出た永野は父義秀さんが92年バルセロナ五輪代表。西藤と同じエリートアカデミーに招かれ、この4人が学生時代から高め合った。フェンシング界でも世界屈指と言われるナショナルトレーニングセンター(NTC)での練習を許され、週に1回の模擬試合で太田ら銀2個の大先輩の胸も借りてきた。

大会直前には19年ラグビーW杯の日本代表が使用した低酸素テントを借り、初8強の快挙を遂げた「ワンチーム」にならって心肺を強化した。2日前に男子エペ団体が日本フェンシング界の悲願だった初の金メダルを獲得した際には、松山が祝福しつつ「悔しい気持ちもある」と燃えていた。

メダルには届かなかったが、お家芸の男子フルーレで個人も団体も4位入賞。敷根は「個人戦で負けた時も人生で一番悔しいと思ったけど、団体も4位で、人生で一番悔しい2回目がすぐにきた」。ただ、準々決勝でイタリアを破り「日本が成長してきた証拠。あと少しで世界のトップ選手に勝てる」と自信も深めた。

前回64年の東京大会も団体は4位だったが、その後メダル獲得まで44年を要した過去とは手応えが違う。「(手応えと世界一との差を)しっかり共有して、みんながその気になって3年後までに力を伸ばせれば、メダルは絶対に取れると思う。団体ではエペに金メダルを先に取られてしまったので、パリ五輪では個人の金メダルを目指したい」と敷根。松山も西藤も「いつまでも太田さん頼みではいけない。歴史を変えたい」と覚悟を口にしてきた。平均年齢23歳の4剣士が王国フランスでのパリ大会へ。五輪の借りを返せる場所は五輪しかない。【木下淳】