今回のオリンピック(五輪)は、コロナ禍で1年、開催が延期された上、今月に首都圏1都3県と札幌、福島の無観客開催が決まり、大会開始直前になって大きく状況が変わりました。観客が入るか入らないか、最後の最後まで諦めなかったチケット担当をはじめ、毎日午前2時、3時まで費やしてきた大会関係者にとって、これはつらい現実だと思います。

例えば、3人制バスケットボール会場の東京・青海アーバンスポーツパークでは、観客席と天井を造るためにドイツの技術者が来日していました。ですが、日本の技術者と最高の場所を造るんだという思いの中、無観客のニュースを現場で知ることになるんです。この現実を、私は記録するしかないんですけれど、人間なので感情は出てしまう…心が痛いです。

「復興五輪」として野球・ソフトボールが開催される福島県営あづま球場も無観客になりました。待っていた子どもたち、福島でこそ開幕と尽力してきた人たちの思いは一体、どこにいくんだろう…そのことは、記録をしなきゃいけない。無観客を決断せざるを得なかった側の人の意見も聞いていますし、どうして決断したかを出来るだけ深掘りしたいです。

東京五輪の公式記録映画の監督に決まったのは2018年の秋です。バスケットボールで国体に出場したりで、スポーツはライフワークとして私の横にあり、自分事として引き受けました。運命だと思いました。撮影のテーマは、つながりです。五輪のようなメガイベントは1人じゃ出来ないし、根本にあるつながりでより良い未来に向かっていくような映画をと思っていましたが、コロナの影響でコンセプトが大きく変更になりました。世界中を飛び回って取材したい選手に直に会い、取材することが出来ないジレンマ…でも、そこでこそ見えてくる物語があり、それをテーマにしていきたいと思っています。

延期が決定した1年前、私は「五輪は世界が再び集うことを表現する最初の光になる」と言いましたが、今は違う意味で光になる部分も、ならない部分も浮き彫りになってきたと感じています。感染拡大が収まらず、政府に対する批判が五輪に向かう状況の中、昨年10月に機運を盛り上げるために来日したIOCのバッハ会長が、すごいバッシングに遭いました。人間って何だろう、世の中はこういう風に動き、歴史は作られていくんだなということを中枢で撮影しながら考えていました。

責任を取る覚悟でやっている競技団体の人、「五輪をやるんだったらやるで、私たちはそこにしっかりと行って対策をする」と、まさにコロナに立ち向かう感染症対策の看護師の声も撮影しました。一方、ボランティアを辞退した人やメディアを通して反対の声明を出された宮本亞門さんも取材しました。全ての事態を見つめ記録することで、映画を見た次の時代の人がどう考えるか、そんなことに思いをはせます。

総監督の私の下には15人ほどのディレクターと約100人の技術者がいます。この時代に生きる私たちが何を見つめなきゃいけないのか。ディレクターに言われたから撮るのではなく、カメラを自分で担いで今、まさに現場で起きている出来事を記録するマインドに切り替えて欲しいと無観客開催決定後にほぼ全員が集まった場所で告げました。

大会前ですが、収録時間は400時間を超えました。私としては、出来るのであれば人々が迷い、乗り越え、そして開催するに至った経緯と医療関係者を含めて日本がどのように歴史をつくっていったのか、そして大会が始まって世界中から集まったアスリートの姿と、受け止めた日本という2部制にしたい。

昨年、バッハ会長にも「パンデミックを含まないと記録映画にはならないと思っている」と直接話し、会長も「もちろん、そう。ナオミだから撮ることが出来ると思っている」と託されました。この映画は単なる記録映画の枠に収まらない、人類の歩みを映し出すものです。この時代の歴史を記録し、50年、100年後の人たちに届いてほしいと願っています。

◆河瀬直美(かわせ・なおみ)1969年(昭44)5月30日、奈良県奈良市生まれ。中学時代にバスケットボールを始め、同市立一条高時代に国体に出場。大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ専門学校)に入学。95年に映画「につつまれて」が山形国際ドキュメンタリー映画祭国際批評家連盟賞を受賞。97年に世界3大映画祭の1つ、カンヌ映画祭(フランス)で「萌の朱雀」が新人監督賞「カメラドール」を受賞。同映画祭では07年「殯(もがり)の森」で審査員特別大賞を受賞。20年「朝が来る」が米アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表。6月にバスケットボール女子Wリーグの新会長に就任。