安藤美希子(28=FAコンサルティング)が銅メダルを獲得した。スナッチで94キロとマークして6位。得意のジャークで120キロを挙げて、合計キロで逆転した

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5位に終わった16年リオデジャネイロ五輪の悔しさを晴らす表彰台となった。

17年に大きな決断をした。所属先だった日本の企業を退社し、韓国へ練習拠点を移した。リオデジャネイロ五輪前に日本代表のコーチを務めていた金度希さんの指導を仰ぐためだった。15年3月、日本を離れる際に「帰らないで下さい」と懇願した。「韓国に来るなら教えてあげるよ」。その言葉を信じた。国際大会の賞金をためて、日本海を渡る日を待っていた。

就労ビザは下りないため、拠点の大学近くのアパートは金さんが借りてくれた。生活を始めた頃は「ゆで卵に気を付けて」と言われた。韓国では日本のような卵20個入りが生ではなく、ゆでてあることがままある。ハングルは読めないため、買い物も一苦労。最初はそんな日々だったが、やはりその指導は自分の成長を促してくれた。休日も一緒に郊外での物資調達に誘ってくれたり、練習以外でも助けてくれた。ビザの関係で3カ月に1度、帰国しないといけないなどの制約もあったが、確実に挙げる重量は増えていった。

新型コロナウイルスの影響で韓国へ渡ることができず、この1年は日本にとどまった。その間もオンラインなどで指導を受けた。「気持ちの糸が切れて、痛みでて苦労もした。五輪へあきらめずに最後までと、練習を始めて調子が上がってきた。いい一年が過ごせたな」といまは言える。久々の実家生活では、母貴子さんの手料理を食べると「ご飯を作ってもらうのは楽だわあ」と実感した。韓国での自炊生活にはなかったサポートも感じられた。

高校で競技を始めた。将来は体育の先生になりたいと、体育科がある埼玉栄へ進学。入学後にいろいろな部活を見学するうちに、重量挙げかフェンシングが気になった。バーベルを挙げると「すごいね!」と褒めてくれる先輩がいた。「どっちにしようかな」と迷うと、母は「重量挙げの話をしている時が楽しそうだよ」と背中を押された。それが始まりだった。

00年に女子が採用されてから6大会目。三宅宏実に続くメダリストになった。「無観客はさみしいですが、ボランティアや運営の方で、知っている方もいる。見えないところからの応援も力に変えていきたい」。見事に挙げきった。