マラドーナに憧れ、自らマラドーナになった男がいる。お笑いサッカー芸人、ディエゴ・加藤・マラドーナ(本名・加藤謙太郎=37)だ。

 サッカーワールドカップ(W杯)の開催が近づく中、ニッカンスポーツコムのサッカー企画で来社し、動画を作成した。丸太のような太ももに、ラテン系の明るさとノリの良さ。その軽やかなボールタッチにも注目してもらいたい。

ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「ディエゴ加藤マラドーナの神の目」

ボールを手にポーズを決めるディエゴ・加藤・マラドーナ
ボールを手にポーズを決めるディエゴ・加藤・マラドーナ

 芸人にはサッカー好きが多いイメージがある。人気コンビのペナルティが名門・市船橋高サッカー部で活躍していたことは有名な話だが、ディエゴ・加藤も本格的にサッカーに取り組んだ一人である。それがなぜマラドーナ芸人に? あまりない機会なので、ここはじっくり話を聞いた。

 その経歴を簡単に記すと、横浜マリノス(現在は横浜F・マリノス)のジュニアユースに所属し、東京・帝京高では10番を背負い、大宮アルディージャの誘いもある中、順大へ進学。卒業後は当時関東リーグだったYSCC(現在J3)でプレーした後、芸人の道へ。一見サッカーエリートにも映るが、その過程にはさまざまな挫折があった。その紆余(うよ)曲折の人生を紹介したい。

■プータローになった…

 中学1年でマラドーナの特集番組を見た。同じ左利きのドリブラー、そしてフリーキック。同じだ―。マラドーナへと向かう人生はここから始まっていた。

 「僕マリノスを中2でクビになっているんです。コーチから試合に出すことができないからって、中3に上がる前の春休みに。別にいてもらっても構わないよって言われたんですけど」

 最初の挫折である。喪失感を抱えながら、同じ横浜市に拠点を置く「かながわクラブ」へと移籍した。

 「そこですごく伸びました。マリノスでは実力を発揮できなくて。僕は攻撃の選手でしたが、(マリノスでは)左サイドバックとかやらされて、コーチと(意見が)合わなくてバッサリ言われたりした。当時の高円宮杯では2部で1位になったチームだけが1部のチームとやれるんですが、かながわクラブはその2部で優勝して(マリノスなどのいる)1部でも全部勝って神奈川代表で関東大会へ出た。そこで浦和レッズに負けるんですけど」

 新たな環境で成長を遂げ、戦力外となった古巣マリノスから思いがけず再加入の誘いが舞い込んだ。だが「僕もクソガキだったんで、行かないです、と」。同時に湘南ベルマーレからもあった誘いも断った。神奈川県内の強豪高校への進学を決めていた。しかし、こちらも指導方針への疑問から最終的に行かない決断をした。行き場を失ってしまい、千葉県内の高校に進んだ。だが、なじめず1学期で早々にやめてしまった。2度目の挫折である。

 「夏休みからプータローになるんですよ、編入もできなかったので。それでどうせならと、帝京の次の年のセレクションを受けてたところ合格した。僕は昭和55年生まれなんですけど、56年生まれの子らと4月から入学しました」

 2学年上には後に鹿島アントラーズなどで活躍した中田浩二がいた。「雪の中の決勝」で知られた全国選手権では登録メンバー25人に1年生ながら入り、Aチームで活動した。

 「当時の帝京はレベルが高くて、その紅白戦の相手とかしていたのでまた伸びた。2年になると試合に出られるようになって、それで3年で僕は副キャプテンとして10番をつけることになった。これで『やっと選手権だ』という時に試合に出られなくなるんです」

指示を出す帝京・古沼貞雄監督(手前左)。後方左端が加藤謙太郎(1998年1月)
指示を出す帝京・古沼貞雄監督(手前左)。後方左端が加藤謙太郎(1998年1月)

■19歳誕生日の出来事

 寝耳に水の出来事だった。前歴として千葉の高校での登録歴があったため、19歳の誕生日と同時に4年目となる高体連への登録ができなくなってしまった。

 「僕は10月31日生まれで、その当時、和製ロナウドと呼ばれた矢野隼人というのも実は19歳高校生って新聞に騒がれたんですけど。彼の誕生日が10月29日で、僕が10月31日で2日違い。その10月の終わりの頃、ちょうど選手権の東京都予選の準々決勝のタイミングで、やっと西が丘でやり始めるというところまで僕はチームの中心でやっていたんですよ、矢野と。1個下には(元日本代表FWの)田中達也もいました。そこで矢野が19歳になって、僕も19歳になった。すると高校3年間を塗りつぶしたらだめだと規定があったみたいで。矢野は愛知FCというクラブチームでやっていたから、高校サッカー(の登録)はまったく塗りつぶしていなかった。だから矢野はOKだけど、僕は千葉の高校から登録をしているから4年目だと。僕の高校サッカーはそこで終わった。泣きたかった。当時の東京なら全国に出られるという自信はあったので『こんな人生ってある?』みたいな…」

 3度目の大きな挫折だった。全国大会を戦う仲間をスタンドから応援するだけだった。卒業後の進路として、大宮アルディージャ、順大、中大から勧誘を受けた。当時の古沼監督に相談したところ「大学行ってからプロになった方がいいんじゃない」という結論に達し、順大を選択した。すると今度は「待っているぞ、加藤」と大きな期待をかけてくれた監督が入学後に退任してしまった。新しい監督がやってくると、その指導方針によって部内が分裂し、さまざまな不遇をかこった。結局なじめず退部することに。サッカー人生4度目の挫折である。

 「どうしてもプロにはなれなかったです。力がなかったというより最後まで力を発揮できなかった。自分の中では誰よりもプロになりたくて、誰よりも努力してきた自負はあった。なのに、どうしてもうまくいかないサッカー人生でした」

 25歳の頃、転機を迎えた。社会人チームでサッカーを続けていたが「自己満足だけ」というモヤモヤ感が膨らんだ。そこにお笑いブームが心に突き刺さった。

■お笑い芸人という人生へ

 「リンカーンという番組あって、そのコーナーでぐっさんラジオというのがあって、ぐっさん(山口智充)がラジオでしゃべるというのがあったんですけど、エピソードで芸人さんの裏の部分、そういうのがあってみんなが泣くんですけど。カズさんがかっこいいと思ってサッカーを始めた時と同じように芸人がめっちゃかっこいいなと思った。お笑い芸人は裏では人を笑わせるためにつらい思いもしながら、表に出たらパッと笑わせる。僕もやっちゃダメかなと思って。ああいうふうになりたい、やろう、という順番で決断した」

 あれだけ恋い焦がれたサッカーはすっぱりやめ、お笑い芸人の養成所へと通った。ただプレーヤーとしてのサッカーにはピリオドを打ったが、自らの売りはサッカーだと認識していた。1年後、芸能事務所と契約すると、そこから毎月新しいネタを考えてはコントを披露していた。芸能人となって2年ほどたった27歳の時。「マラドーナがファミレスにやってくる」というネタをつくった。「ユニホームをそろえてマラドーナのメイクしたらいけるんじゃないかな」。それが始まりだった。

 実際、コントは「ダダずべり」だった。ショックからユニホームはタンスの奥にしまい込んだ。だが終わらなかった。28歳の頃、人気音楽ユニット「スキマスイッチ」の常田真太郎が率いる芸能人サッカーチームの試合に声がかかった。セレッソ大阪のホームゲーム、長居スタジアムでの前座試合への出場だった。

 「『何か芸ないの?』」って言われて『マラドーナの物まねはあるんですけど』と言ったら、絶対それでやったらいいよと言ってもらって。それでタンスから衣装を引っ張り出して、長居スタジアムでやったらめちゃめちゃ盛り上がって。サッカー場だとこれだけ笑いとれるのって。こんなに笑いを取れたことがなかったので、自信を持ってサッカー場でマラドーナをやれるようになった日でした」

 「僕の笑いのポイントとしては、あのいでたちで出てくるのに、実はうまいんかい、という落としだと思うんです。だから、そこなんだと自分で気付けた時に、より笑いの要素を。試合に出たとしたら、見せ方として初めにわざと転んだり、転んでレフェリーに『なんで吹かないんだ』と食いかかりをしたり。それでいてすごいシュート決めるんかい、という。『おおー!』というスタジアムの順番というか、笑いの取り方というか。それとみなさんが知っている神の手と5人抜きという代名詞があるので、必ずどこかで組み込むと笑いが生まれる」

「神の手」を披露するディエゴ・加藤・マラドーナ(2014年5月31日)
「神の手」を披露するディエゴ・加藤・マラドーナ(2014年5月31日)

■サッカー教室で全国奔走

 マラドーナ芸を始めて、はや10年がたった。今もイベントやテレビ出演、子供向けのサッカー教室にと全国を奔走する。W杯イヤーを迎え、世間からのニーズはより膨らむ。「偉大さは感じています。やんちゃな部分があるからこそ、お笑いでもいかせられるのは唯一マラドーナなんです。たとえばメッシだとお笑いの要素の取り方が分からない」。

 マラドーナを突き詰めた先に見えたもの、それはオリジナリティだった。

 「『マラドーナサッカー教室』ってやることあるんですけど、マラドーナって今の世代の子って知らないよねってなった時に、もう別にマラドーナ知ってても知らなくてもいいって。ディエゴ・加藤・マラドーナってやつがこれなんだよ、ってことで。マラドーナの物まねなんですけど、マラドーナの物まねに体としてはこだわらなくてもいいのかなって。マラドーナ知らないでしょ、需要ないでしょ、仕事なくなるでしょ、って感じで言われたりすることもあるんですけど。意外と覚えてもらって、全国でこんなサッカー教室をやっているからウチも呼んでみようかと。物まねをすごい突き詰めてというのではなくて、それで今後もやっていこうと思っています」

 自然と熱い語り口になる。サッカーのプロにはなれなかったが、お笑いという分野で「プロ」として歩んだ自負の表れだろう。ディエゴ・加藤は憧れのピッチに立ち、その仕事に全力疾走している。挫折を知るからこそ、より幸せを実感できることだろう。

 「Jリーガーが立つ舞台、お客さんの前に立てたのはお笑いやっていたから。ジャンルは違えどもピッチには立てて、このお客さんたちの前ではサッカーができるようになったんだな。不思議だなと思います」

 人生いろいろ、である。

【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)

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