<第1部国立で輝いた男たち(3):東海大一FWアデミール・サントス>

 国立競技場には、宝が詰まっていた。86年度大会決勝、東海大一(静岡)のFK。FWアデミール・サントス(2年)に魔法をかけられたボールは、急激に落ちながら右に曲がり、国見(長崎)ゴールに吸い込まれた。金を稼ぎたくてブラジルから単身留学。選手権をきっかけにプロになり、日本国籍も取得した三渡洲アデミール氏(45)が、語り継がれる「バナナシュート」を振り返った。

 サントスの左足から放たれたボールは、7枚の壁の左上を越えて変化した。落ちながら右に曲がり、ゴール左スミに吸い込まれた。4万人のスタンドから湧き起こる地鳴りのような大歓声。テレビは「ゴ~~~ル!」の絶叫。日本中が、魔法のキックに酔った。

 「今も、はっきり覚えている。相手も警戒していたけれど、自信はあった」

 今と違ってボールやスパイクも重く、FKを変化させるのは難しかった。ブラジルから一時帰国し、友人としてテレビ出演していたカズは「僕ならボール3、4個分は外れていた」。観戦したブラジル代表FWカレカも舌を巻いた。ただ、今も語り継がれるのは会場が国立だったからだ。

 「ピッチに出た瞬間、観客の多さに驚いた。チアホーンの音にも。緊張で、口から心臓が出そうだった。両足が重かった。高校の試合ですよ。ブラジルじゃ考えられない。国立はサッカーの甲子園ですよね」

 85年春に東海大一に留学した。「サッカーで金を稼ぎ、ブラジルのママを楽にしたい」。そのために、日本一になって注目されるしかない。しかし、1年目の選手権予選は決勝で清水市商にPK戦負け。国立の夢を果たせず、号泣。

 「日本人は下手じゃないし、何よりフィジカルが強かった。毎日毎日、練習で走った。ブラジルでは考えられないくらい。負けたことより、あと1年もつらい練習が続くのが悲しかった。それからは、命懸けで走った。我慢して走った。今までで一番走りました」

 予選敗退後に日本リーグのチームから誘われた。しかし、頭には選手権しかなかった。同学年より1歳年上のため、年齢制限で2年までしか出場資格がない。静岡サッカー、東海大一、同校の望月保治監督への恩返しもあった。国立に立つため、いや国立で勝つためにラストイヤーにかけた。

 「いいチームでした。うまい選手も多かった。守備が強く、自由にやらせてもらった。だから優勝したかった。PK戦負けした清水市商が全国優勝したのも励みになった。Jもなく、日本一の先は見えなかったけれど、国立には宝物が詰まっている気がしていた」

 初戦から準決勝まで、すべて3-0で勝った東海大一は、同じ初出場の国見と決勝で対戦。ブラジルからの留学生は、FK1発で一躍人気者になった。写真集や自伝が出版され「外に出られなかった」。在学しながらヤマハ(現磐田)と契約。Jリーグ清水に移籍したが、外国人枠の壁やケガで出場機会には恵まれなかった。引退後に出した店は「バナナシュート」。もちろん、あのFKからだ。

 「言葉は知らなかったけれど、テレビ解説で『バナナシュート』と言ってくれたのが有名になった。僕の代名詞だし、ファンや支えてくれた人への感謝の気持ちで店名にしたんです」

 今、三渡洲は指導者ライセンスの取得を目指す。ブラジルのライセンスを持つが、日本の複雑なルールに苦戦している。「サッカーを教えたい。それが、日本への恩返し」。今も、街を歩くと声を掛けられることがある。「サントスさんですね、応援しています」と。決して順風なサッカー人生ではなかったが、確かに国立のピッチには宝物が詰まっていた。(敬称略)【荻島弘一】

 ◆三渡洲(さんとす)アデミール

 1968年3月28日、ブラジル南部バイア州生まれ。サンパウロ州のジュベントスのユースチームでカズ(現横浜FC)とプレー、85年5月に東海大一に留学。86年度選手権では5ゴールで得点王、チームを優勝に導いた。87年に在学しながらヤマハと契約し、日本リーグ初優勝に貢献。91年に清水に移籍し、95年に日本国籍を取得。96年引退後、静岡市内にレストラン「バナナシュート」を開店。05年に閉店後、イカイサッカー部監督に就任。

 ◆86年度決勝(87年1月8日・国立競技場)ともに初出場の東海大一と国見が対戦。前半32分に東海大一がサントスの直接FKで先制し、後半33分に沢登のCKを大嶽がヘッドで決めて突き放した。守備力が持ち味の東海大一は其田を軸に猛攻を仕掛ける国見を完封。予選から全試合無失点の完全優勝を成し遂げた。沢登、大嶽の日本代表「ドーハ組」ら、多くの選手がJリーグでも活躍した。