<第1部国立で輝いた男たち(9):帝京・古沼貞雄監督>

 国立に愛されるだけの準備をしていた-。古沼貞雄、74歳。帝京(東京)の監督として、全国選手権で戦後最多タイの優勝6度。歴代最多80勝を誇る名門は、特に聖地に強かった。初の国立開催となった1976年(昭51)度の準決勝から、国立競技場で17戦して10勝2分け5敗。なぜ帝京は聖地に強かったのか?

 そこには名将が「初めて明かす」という秘策があった。

 「感動をもらった国立の最後ですから。もう明かしてもいいでしょう」

 常勝のカナリア軍団・帝京を39年にわたって率いた古沼は、そう切り出すと、穏やかに口角を上げた。

 「実は、普段の練習からゴールの向きを国立と同じ方角に合わせていたんです。太陽の光が当たる角度を同じにして、本番同様の『空間』をグラウンドにつくった。私の秘密兵器です。国立で勝つための」

 確かに強かった。国立開催となった76年度から、監督として指揮した03年までの「聖地」では17戦して10勝2分け(両校優勝)5敗。「人間は、普段の環境に近い方が力を発揮できる。ならば、国立をホームにすればいい」。クロスを上げる時、ロングパスをクリアする時。攻守の練習で、単なる「国立の日差し対策」だけでなく「空間」ごと選手の体に教え込んだ。

 角度は、南側(代々木門側)のゴールから見て北北東に約26度、傾けた。「うちは、国立の南側のゴールに決める数が多かったんです。北側(千駄ケ谷門側)と比べて圧倒的に」。なぜなら、当時のグラウンドが野球部と共用だったから。「自校で国立の方角を再現すると、北側のゴール辺りに野球のマウンドがくる。傾斜の上じゃ、さすがに練習しづらくて(笑い)」。

 この理想型が、1984年(昭59)1月8日の第62回大会決勝だった。ちょうど30年前、4度目の優勝の時だ。高校サッカー史上最多の観衆6万2000人。相手は長谷川健太、大榎克己、堀池巧の「3羽がらす」を擁し、2連覇を狙う清水東だった。前半21分、主将のMF平岡和徳が意表を突き、約40メートルの長い左クロスを送る。逆サイドで弾んだ球の浮き上がりを、走り込んだFW前田治が右足でボレー。クロスバーに当てながら南側のゴールに入れた。ベンチの古沼は鳥肌が立った。思わず腰を上げ、腹の前で力いっぱい手をたたく。1-0で勝った。

 前田はパスが出る瞬間を見なかった。「来ると信じていた。何千回と練習した形だから」。背中に真っすぐ影が伸びていた。いつも通り、太陽に向かって走った。古沼はうれしそうに振り返る。「数ある優勝の中で、最高の優勝。太陽光の練習は、実は選手に一切の説明をしなかった。無意識に体に覚えさせたくて」。

 自身は陸上の中長距離が専門。「サッカー素人」だったから発想が型破りだった。「優勝は難しいことじゃない。工夫すれば1番になれる」と断言もする。「ただ…」。言葉を続けた。

 「あの大舞台は、実力以上の、とんでもない能力を引き出してくれる。予想をはるかに上回る力を」

 国立で初優勝した77年度の決勝で、四日市中央工(三重)を仕留めた早稲田一男のジャンピングボレー。84年度準決勝の武南(埼玉)戦では、室崎公平がオーバーヘッドを決めた。「どっちも、素晴らしいなんてもんじゃない。あんなの、プロだって決められないよ。中田浩二の時には、東福岡との『雪の決勝』(99年度)もあった。信じられないことが平気で起こる舞台でしたね」。

 だから74歳の今も現場に立つ。この冬も矢板中央(栃木)と帝京長岡(新潟)のベンチに入り、また聖地を目指す。81歳になる7年後の東京五輪に、教え子を送る夢もある。「新たな国立の歴史が生まれる瞬間を見るまで、指導していたい。まだ天国には行けませんね」。国立に愛された男は、国立にまた夢を見る。【木下淳】(この項おわり)

 ◆古沼貞雄(こぬま・さだお)1939年(昭14)4月25日、東京都生まれ。江戸川高、日大から64年に帝京高赴任。翌年サッカー部監督。高校総体と合わせて日本一9度。鹿島MF中田、新潟FW田中達ら50人以上のJリーガーを育てた。03年度で勇退。Jリーグ東京Vのアドバイザーを経て、07年はコーチとして流通経大柏(千葉)を選手権初優勝に導いた。